第九話「ガリス・ノーマンと、全部わかった上での笑顔」
◇◇◇◇
翌朝、ホームズは早くに起きていた。
テーブルの上に手帳と記録の紙と歴史書を並べて、何かを書いていた。
ロンが下りてきたとき、すでに紙が何枚か埋まっていた。
「何をしている」
「整理だ」
「何の」
「今わかっていることと、まだわかっていないことの」
ロンが覗き込んだ。
ホームズの字は細く、速く、癖がある。
読めないことはないが、読みやすくもない。
「わかっていないことの方が多そうだな」
「圧倒的に多い」
「正直だな」
「事実だ」
ロンは台所へ向かった。
湯を沸かしながら、声をかけた。
「ライラはどこだ」
「客間で眠っている。まだ起こさなくていい」
「泊まらせたのか」
「夜に一人で帰すのは得策じゃない」
ロンは少し黙った。
それから、
「そうだな」
と言った。
◇◇◇◇
全員が揃ったのは、朝の中頃だった。
ライラが起きてきて、少し恐縮した顔をしていた。
ポワロが朝食を用意していた。
パンと、スープと、果物が少し。
「すみません、ご迷惑を」
「迷惑じゃない」とロンが言った。
「でも」
「迷惑じゃないと言った」
ライラは少し口をつぐんだ。
それから、小さく「ありがとうございます」と言って、席に着いた。
エーテル教授は図書室から来ていた。
朝食の場には参加しないことが多いが、今日は椅子に座った。
パンを一つ、静かに食べた。
アーティは来なかった。
上から気配だけがある。
「アーティは食べないのか」とライラが小声でポワロに訊いた。
「たまに食べる」とポワロが小声で返した。
「たまに、というのは」
「気が向いたとき」
「どのくらいの頻度で」
「わからない。把握しようとしたことがない」
ライラは少し考えてから、「そういうものですか」と言った。
ポワロは「そういうものだ」と答えた。
◇◇◇◇
朝食が終わってから、ホームズが整理した紙を広げた。
「今わかっていることを確認する」
全員が顔を上げた。
「ガリス・ノーマンは、二十年以上前にあの区画の土地を手に入れるために、住人の記録を消した。目的は川の輸送路の権利だ。その後も土地を巡って動き続けている」
「そこまでは昨夜確認した」とロンが言った。
「問題はここからだ。ノーマンは、あの部屋の記録の存在に気づいている可能性がある。セノ氏が隠れているのは、それが理由かもしれない」
「かもしれない、というのは」
「まだ確認できていないからだ。セノ氏が隠れている理由が、本当にノーマンを警戒してのことなのか、あるいは別の理由なのか」
「別の理由」
「ノーマンが封筒をライラに渡したことが、引っかかっている」
ライラが少し背筋を伸ばした。
「敵対しているはずの相手の娘に、わざわざ手を差し伸べた。それが罠なら、目的は何か。俺たちをここへ引き込むためだけなら、もっと単純な方法がある」
「わざわざ遠回りした理由がある」とポワロが言った。
「そうだ」
「その理由が、失いたくないもの、と関係している」
「おそらく」
◇◇◇◇
「直接会いに行くべきじゃないか」
ロンが言った。
全員が黙った。
「ノーマンに、だ。向こうがこちらを知っている可能性があるなら、隠れていても意味がない。むしろ直接当たった方が、何かわかるかもしれない」
「危険だ」とポワロが言った。
「危険かもしれない。でも」
ロンはテーブルの上の写真を見た。
「アーティが言っていたことが正しければ、ノーマンは全部わかった上で動いている。それなら、俺たちが慎重に動いても、どうせ筒抜けだ」
「筒抜けなら」
「こちらも正面から動いた方がいい」
ホームズが少し考えた。
「理屈は通っている」
「だろう」
「ただ、正面から動くにしても、手ぶらで行くのは得策じゃない。こちらにも、何か持っていく必要がある」
「何を」
「交渉の材料だ。ノーマンが失いたくないものが何かわかれば、それを使える」
「わかるのか」
「調べる」
「どこで」
ホームズは歴史書を引き寄せた。
「この本の続きが、図書室にある可能性がある。エーテル教授」
教授が顔を上げた。
「ノーマン家に関する記述が他にもあるか、確認してもらえるか」
「構わない」
教授は立ち上がって、図書室へ戻った。
◇◇◇◇
ライラが手を上げた。
「私も調べられることがあります」
「何だ」とホームズが訊いた。
「父の書斎です。家に戻れば、父がノーマンについて集めた資料が残っているかもしれません。父は書類を捨てない人なので」
「一人で行くな」とロンが言った。
「一緒に来てもらえますか」
「行く」
「ありがとうございます」
「礼はいい。行くぞ」
ロンが立ち上がった。
ライラも立ち上がった。
ポワロが二人を見た。
「気をつけて」
「わかってる」
ロンが短く答えて、玄関へ向かった。
ライラがその後を追った。
◇◇◇◇
二人が出て行って、しばらくしてから。
ポワロが窓から外を確認した。
二人の姿が、通りを曲がって見えなくなった。
「ホームズ」
「なんだ」
「ノーマンが封筒を渡したとき、ライラに何か言った、と言っていたね」
「お父さんがよろしくと言っていた、だ」
「それ、少し変じゃないかな」
ホームズが顔を上げた。
「変というのは」
「敵対している相手の居場所を知っている、ということだよね。それをわざわざ娘に伝えた」
「そうなる」
「敵の居場所を知っているなら、そのまま追えばいい。なぜ娘に知らせた」
ホームズは少し黙った。
「追いたくなかったのかもしれない」
「追えるのに、追わなかった」
「あるいは」
ホームズが窓の外を見た。
「追ってほしくない理由が、セノ氏の側にある」
「どういう意味」
「セノ氏が持っている何かを、ノーマンが必要としている。でも自分では取りに行けない。だから娘を使って、間接的に動かそうとした」
ポワロが静かに考えた。
「セノ氏が持っているもの、というのは」
「記録だ」とホームズが言った。
「あの部屋の記録、だけじゃなく」
「そうだ。セノ氏だけが知っている何かが、まだある。手帳に書かれていない何かが」
ポワロは窓の外に目をやった。
ロンとライラがいなくなった方角を、静かに見た。
「それが、ノーマンの失いたくないものと関係している」
「関係していると思う」
「思う、というのは」
「まだわからないからだ」
ポワロは小さく笑った。
「珍しいね、ホームズがわからないと言うのが続くのは」
「珍しくもない」
「いつもはもう少し確信を持って話す」
「今回は」
ホームズは手帳を持ち上げた。
「相手が一枚上手かもしれない、という可能性を捨てていない」
◇◇◇◇
図書室から、エーテル教授が戻ってきた。
手に、薄い冊子を数冊持っている。
「あった」
「何が」とポワロが訊いた。
「ノーマン家の商取引の記録だ。この館の前の住人が集めていたらしい」
「この館の前の住人」
「霧の家には、俺たちの前にも誰かが住んでいた。その人物が残していったものだ」
ホームズが立ち上がった。
冊子を受け取って、一冊目を開く。
日付は古い。
三十年以上前のものだ。
「ノーマン家の取引先の一覧と、金の流れが記録されている」
「誰が書いた」
「わからない。でも」
ホームズが二冊目を開いた。
「この冊子を書いた人物は、あの部屋の記録を書いた最初の四人のうちの一人だ。字体が一致する」
「つまり」とポワロが言った。
「この館は、最初から関係していた」
「そうだ。霧の家は、偶然じゃない。俺たちが来る前から、ここはこの話の中にあった」
◇◇◇◇
冊子を読み進めていくと、ある名前が繰り返し出てきた。
ノーマン家と、定期的に取引のある人物の名前だ。
「この名前」とホームズが言った。
「知っているか」とポワロが訊いた。
「知らない。でも取引の規模が大きい。そして」
ホームズが該当のページをポワロに見せた。
「取引の内容が、土地の記録に関するものだ」
「記録を、売買している」
「買い取っている、というより、消している。金を払って、記録を消してもらっている」
「それがノーマンのやり方だ」
「そしてこの取引の相手が、今もこの町にいるとしたら」
ポワロが静かに言った。
「ノーマンの協力者がいる、ということだ」
「この町の中に」
二人は黙った。
ランタンの光が、揺れた。
◇◇◇◇
上から、足音がした。
アーティが階段を下りてきた。
手に、小さな紙を持っている。
「何だ」とホームズが訊いた。
「書いてあったものだ」
「どこに」
「書斎の窓の縁に、外から貼り付けてあった」
全員がアーティを見た。
ホームズが紙を受け取った。
短い文章が書かれていた。
字は几帳面で、細い。
見覚えがあった。
「セノ氏の字だ」とホームズが言った。
部屋が静かになった。
紙にはこう書かれていた。
『冊子の最後のページを見ろ。そこに名前がある。その人物には近づくな』
ホームズが冊子の最後のページを開いた。
一番最後の取引記録の欄に、名前が書かれていた。
日付は、八日前。
ホームズの手が、わずかに止まった。
「どうした」とポワロが訊いた。
ホームズが冊子をポワロに向けた。
ポワロが読んだ。
目が、静かに見開かれた。
名前の欄に書かれていた人物は、この町の人間ではなかった。
この館に、関係のある人物だった。
◇◇◇◇
エーテル教授が、静かに口を開いた。
「誰の名前だ」
ホームズとポワロが、教授を見た。
それからアーティを見た。
アーティは壁に寄りかかって、目を閉じていた。
「アーティ」
ホームズが静かに呼んだ。
アーティが目を開けた。
黒い耳が、静かに動く。
「知っていたか」
アーティは少しの間、答えなかった。
それから、静かに言った。
「知っていた」
「いつから」
「最初から」
部屋が静かになった。
外で、風が鳴った。
霧の家が、低く軋んだ。
ホームズのオッドアイが、アーティを静かに見つめた。
金と緑が、揺れるランタンの光の中で、ゆっくりと細くなった。
「話してくれ」
アーティは目を閉じた。
それから、ゆっくりと息を吐いた。
「長い話になる」
「構わない」
「後悔するかもしれない」
「それも構わない」
アーティは目を開けた。
窓の外の暗い空を、少しの間見た。
それから、口を開いた。
◇◇◇◇
第九話 了




