第十話「アーティが話したこと、全部」
◇◇◇◇
アーティが話し始める前に、ロンとライラが戻ってきた。
玄関の扉が開いて、二人が入ってきた。
ロンが先で、ライラが後だ。
ライラは鞄を抱えている。
中に書類が入っているらしく、少し重そうだ。
「何かあったか」とロンが居間を見回して言った。
部屋の空気が、出かける前と違うことに気づいたらしい。
「アーティが話す」とポワロが答えた。
ロンが靴を脱ぎながら、アーティを見た。
「珍しいな」
「そうでもない」とアーティが言った。
「お前が自分から話すのは珍しい」
「必要なときは話す」
「今が必要なときか」
「そうだ」
ロンは上着を脱いで、椅子に座った。
ライラもソファに腰を下ろした。
鞄を膝の上に置いて、アーティを見た。
全員が揃った。
◇◇◇◇
アーティが話し始めた。
「十五年前から話す」
誰も口を挟まなかった。
「俺がこの町に来たのは、十五年前だ。どこから来たかは関係ない。ただ、来た。この館を見つけて、入った。誰もいなかった。そのまま住み始めた」
「俺たちが来る前から住んでいたのか」とロンが言った。
「そうだ。お前たちが順番に来た。それぞれ別の時期に、別の理由で。俺は全員を見ていた」
「見ていたのか、最初から」
「見ていた。声をかけるつもりはなかった。ただ、放っておいても出て行かないことがわかったから、そのままにした」
ポワロが小さく笑った。
「そういう経緯だったんだね」
「そうだ」
アーティは続けた。
「住み始めて少ししてから、字が綺麗な人物と会った。この館の近くで、偶然だ。その人物は俺を見て、少し驚いた顔をした。それから、話しかけてきた」
「何と言った」とホームズが訊いた。
「お前は霧の家に住んでいるか、と」
「住んでいると答えたのか」
「答えた。嘘をつく理由がなかった」
◇◇◇◇
「その人物が、音の読み方を教えてくれた人物か」とホームズが確認した。
「そうだ。地下の機械のことも、この館のことも、少しずつ教えてもらった」
「なぜお前に教えた」
アーティは少し間を置いた。
「俺が、ここに住み続けるだろうと思ったらしい。理由を訊いたら、そういう目をしているから、と言われた」
「そういう目」とロンが繰り返した。
「俺もよくわからなかった。ただ、その人物の言うことは、たいてい当たっていた。だからそういうものだと思った」
ライラが静かに口を開いた。
「それは父ですか」
アーティがライラを見た。
「そうだ」
ライラは膝の上の鞄を、少し強く抱えた。
「父は、あなたのことを話していましたか」
「話していた。霧の家に、面白い人間がいる、と」
「面白い、というのが父らしい言い方です」
ライラが小さく笑った。
目が、少し赤くなっていた。
◇◇◇◇
アーティが続けた。
「セノ氏から教えてもらったのは、音の読み方だけじゃない。ノーマンのことも聞いた。あの区画のことも。記録のことも」
「全部知っていたのか」とロンが言った。
「知っていた」
「なぜ言わなかった」
「言う必要がなかった。俺が知っていることと、お前たちが自分で辿り着くことは、別のことだ」
ロンが眉を寄せた。
「どういう意味だ」
「セノ氏が言っていた。記録は、自分で辿り着いた者だけに意味を持つ。教えてもらった者には、意味が薄い」
「回りくどいな」
「そういう人だったらしい」とライラが静かに言った。
「父は、遠回りをする人でした。直接言えばいいことを、わざわざ時間をかけて伝える。でも」
彼女は少し考えた。
「その遠回りの中に、いつも意味があった」
◇◇◇◇
「本題に入る」とアーティが言った。
全員が静かになった。
「冊子の最後のページに書いてあった名前だ」
「聞く」とホームズが言った。
「その人物の名前は、セレン・ヴォーンという」
部屋が静かになった。
誰も知らない名前だった。
少なくとも、ホームズには聞き覚えがなかった。
ロンも、ポワロも、首を僅かに傾げた。
ライラだけが、息を飲んだ。
「ライラ」とホームズが言った。
「知っているか」
ライラは少し間を置いた。
「父の、古い知り合いです。父がたまに名前を出していました」
「どんな人物だ」
「詳しくは知りません。ただ、昔は父と一緒に調べ物をしていた人だと聞いていました」
「一緒に調べていた」
「でも、途中で、離れた、と」
「なぜ」
「教えてもらえませんでした。父が話したくなさそうだったので、聞きませんでした」
◇◇◇◇
アーティが続けた。
「セノ氏から聞いた話では、セレン・ヴォーンはかつてセノ氏と同じ側にいた人物だ。記録を守ろうとしていた。あの部屋に集まっていた四人の中の、一人だ」
「四人のうちの一人が、ノーマン側に」とポワロが静かに言った。
「そうだ」
「いつ変わった」
「十二年前の引き継ぎの頃だ。新しい四人に引き継ぐ直前に、セレン・ヴォーンはノーマンと取引をした」
「何を売った」
「情報だ。あの部屋の場所と、記録の内容の一部を、ノーマンに渡した」
「見返りは」
アーティは少し間を置いた。
「わからない。セノ氏も、そこまではわからなかった。ただ」
「ただ」
「セレン・ヴォーンには、守りたいものがあったとセノ氏は言っていた。そのために、売った」
「守りたいもの」とロンが言った。
「ノーマンの失いたくないものと、対になっている」とホームズが静かに言った。
「そうかもしれない」
◇◇◇◇
「近づくな、とセノ氏は書いていた」とホームズが言った。
「そうだ」
「理由は」
「危険だからだ。セレン・ヴォーンは、記録の在処を知っている。あの部屋のことも、機械のことも、鍵のことも。全部知った上で、ノーマン側にいる」
「知っていながら、記録を取りにこなかった」
「来られなかったのかもしれない。あるいは」
アーティは窓の外を見た。
「来る必要がなかったのかもしれない」
「どういう意味だ」とロンが訊いた。
「俺たちが来ることを、知っていた可能性がある」
部屋が静かになった。
「ノーマンが封筒をライラに渡した。俺たちをここへ引き込んだ。セレン・ヴォーンもそれを知っていたなら」
ホームズが静かに言った。
「俺たちが自分で辿り着くのを、待っていた」
「誰かがそう仕向けた」
「二人とも、だ」とアーティが言った。
「ノーマンとセレン・ヴォーンが、別々の目的で、同じ方向へ俺たちを動かした」
◇◇◇◇
「目的が別なら」とポワロが言った。
「二人は完全に協力しているわけじゃない」
「そうなる」とホームズが答えた。
「どちらかが、もう一方を利用している」
「あるいは、互いに利用し合っている」
「それなら」
ロンが腕を組んだ。
「俺たちが、どちらにとって都合がいいのかによって、話が変わってくる」
「そうだ」
「ノーマンにとって俺たちは」
「記録を表に出させるための道具だ。記録が公になれば、土地の不正取引が明らかになる」
「それはノーマンに不利じゃないか」
「そう思うだろう」
ホームズは立ち上がった。
「でも、逆に考えると」
「逆」
「記録が出ることで、ノーマンが得をする場合がある」
ロンが眉を寄せた。
「どんな場合だ」
「記録の中に、ノーマン以外の人物が関わっていたことが書かれている場合だ」
部屋が静かになった。
「セレン・ヴォーンのことか」とポワロが静かに言った。
「冊子に名前があった。八日前の取引記録に」
「記録が表に出れば、セレン・ヴォーンの名前も出る」
「ノーマンは記録を使って、セレン・ヴォーンを切ろうとしている」
◇◇◇◇
ライラが口を開いた。
「では、セレン・ヴォーンはなぜ俺たちをここへ引き込んだんですか」
「記録が表に出る前に、自分に不利な部分を消したかったのかもしれない」とホームズが答えた。
「でも、自分で消せばいい」
「消せない理由がある。あの部屋の記録には、鍵が必要だ。そして鍵は」
「霧の家にあった」
「そうだ。鍵をここへ持ってきたのがセノ氏なら、セレン・ヴォーンはここへ来るしかない」
「でも来なかった」
「来られなかった」
「なぜ」
ホームズは少し間を置いた。
「それが、まだわからない」
ロンが立ち上がった。
「わからないことが多い割に、ずいぶん見えてきたな」
「輪郭だけだ。中身はまだ霧の中にある」
「霧の家らしいな」
誰かが小さく笑った。
ポワロだったかもしれない。
ライラだったかもしれない。
◇◇◇◇
「一つだけ、訊いていいか」
ロンがアーティに言った。
「なんだ」
「冊子の最後のページの名前を、最初から知っていた、と言ったな」
「言った」
「ということは、セレン・ヴォーンがノーマンと取引をしていることも、知っていた」
「知っていた」
「なぜ言わなかった」
アーティは少し間を置いた。
「セノ氏が、言うなと言っていた」
「なぜ」
「然るべき者が、自分で辿り着くまで待て、と」
ロンはため息をついた。
「セノ氏は、俺たちが辿り着くことを信じていたのか」
「そうだ」
「なぜそこまで信じられる」
アーティが、初めて、わずかに表情を動かした。
「セノ氏が言っていた。霧の家に住み続ける者は、必ず気になるから調べる、と言う。そういう人間が集まる場所が、霧の家だ、と」
ホームズが、静かに目を細めた。
「セノ氏は、この館を知っていた。ただ知っていたんじゃない」
アーティが頷いた。
「霧の家に、然るべき者を集めることが、セノ氏の計画の一部だった」
「三十年かけた計画の」
「そうだ」
◇◇◇◇
部屋が静かになった。
三十年。
最初の四人が記録を始めた頃から、ずっと。
「セノ氏は、俺たちのことを知っていたのか」とポワロが静かに言った。
「一人一人のことは知らなかったと思う」とアーティが答えた。
「でも、こういう人間が集まることは、わかっていた」
「どうして」
「霧の家がそういう場所だからだ。セノ氏が言っていた。この館には、気になることを放っておけない人間が引き寄せられる。それはこの館が建てられたときから、そうだったと」
「この館を建てた人物が」とホームズが言った。
「最初の四人の、さらに前にいた人物だ」
「どんな人物だ」
アーティは少し考えた。
「セノ氏も、詳しくは知らなかった。ただ一つだけ言っていた」
「なんと」
「その人物も、誰も頼んでいないのに調べ続けた人間だった、と」
ホームズのオッドアイが、静かに光った。
金と緑が、ランタンの揺れる光の中で、ゆっくりと細くなる。
◇◇◇◇
ライラが、静かに立ち上がった。
「父は、私たちがここまで来ることを、信じていたんですね」
誰も否定しなかった。
ライラは鞄を持ち直した。
「父の書斎から、資料を持ってきました。ノーマンに関するものと、セレン・ヴォーンの名前が出てくるものが、いくつかあります」
「見せてくれ」とホームズが言った。
「はい」
ライラが鞄を開けた。
書類を取り出した。
テーブルの上に広げた。
全員がテーブルを囲んだ。
アーティだけが、少し離れた場所に立っていた。
「アーティ」とロンが言った。
「なんだ」
「来い」
「見なくてもわかる」
「来い」
アーティは少し間を置いた。
それからテーブルに近づいた。
ロンが、隣に場所を空けた。
アーティはそこに立った。
黒い耳が、静かに動いた。
霧の家の夜が、深くなっていく。
テーブルの上の書類が、ランタンの光に照らされて、ゆっくりと読まれていった。
◇◇◇◇
第十話 了




