第十一話「セレン・ヴォーンの住所と、行くべきか否かの長い議論」
◇◇◇◇
書類を読むのに、二時間かかった。
ライラが持ってきた資料は、量が多かった。
父親が几帳面に整理していたものと、そうでないものが混在していて、関係するものとそうでないものを仕分けるだけでも時間がかかった。
ホームズが読む速度は早い。
ポワロが整理する。
ロンが確認する。
ライラが補足する。
エーテル教授が時折、図書室から関連する本を持ってくる。
アーティは黙って立っていたが、ホームズが何かを訊くと、必ず答えた。
「この取引、セノ氏はいつ把握した」
「七年前だ」
「この人物は今も町にいるか」
「いない。四年前に出て行った」
「これは」
「知らない」
知らない、と答えたのは一度だけだった。
◇◇◇◇
仕分けが終わった頃には、夜が深くなっていた。
テーブルの上に、関係する書類が三つの山に分かれている。
ノーマンに関するもの。
セレン・ヴォーンに関するもの。
どちらにも関係する可能性があるもの。
一番小さい山が、セレン・ヴォーンに関するものだった。
「少ないな」とロンが言った。
「意図的に少なくされている」とホームズが答えた。
「誰に」
「セノ氏自身に、だ。セレン・ヴォーンに関する資料は、他の資料と比べて明らかに薄い。持っていなかったのではなく、残さなかった」
「なぜ」
「わからない。ただ、近づくな、と書いたくらいだ。余計な痕跡を残したくなかったのかもしれない」
ライラが小さく頷いた。
「父は、人を守るために情報を隠すことがありました。相手のためではなく、関わる人間のために」
「俺たちのために、か」とロンが言った。
「そうだと思います」
◇◇◇◇
それでも、三つの書類の中に、一枚だけ住所が書かれたものがあった。
セレン・ヴォーンの名前と、この町の住所が、走り書きで記されている。
他の几帳面な字とは違う。
急いで書いたか、あるいは書くことを迷いながら書いたような字だ。
「これは」とホームズが言った。
「最近書いたものだ」とアーティが答えた。
「なぜわかる」
「インクの乾き方だ。他の書類と違う。一週間以内に書かれている」
「セノ氏が隠れる前後に書いた」
「そうなる」
ロンが住所を見た。
「この町の、北の区画だ。そんなに遠くない」
「行くのか」とポワロが訊いた。
部屋が静かになった。
◇◇◇◇
「行くべきか否か」とロンが言った。
「そのまま議論にしてどうする」とポワロが苦笑した。
「議論するしかないだろう。どう考える、ホームズ」
ホームズは住所の書かれた紙を見ていた。
「セレン・ヴォーンに会うことで、得られる情報がある。ノーマンとの取引の詳細、記録のどの部分が渡ったか、セノ氏の現在の状況」
「それはわかった。行くべき理由だ。行くべきでない理由は」
「危険だ」
「具体的には」
「こちらの動きが筒抜けである可能性がある。会いに行けば、ノーマンに知られる。あるいはセレン・ヴォーン自身が、俺たちを利用しようとするかもしれない」
「利用、というのは」
「セレン・ヴォーンはノーマンに情報を売った。同じことを、俺たちにもするかもしれない。俺たちが持っている情報を引き出して、ノーマンへ流す」
ロンが腕を組んだ。
「つまり、会いに行けば情報が得られるかもしれないが、同時に情報が漏れるかもしれない」
「そうなる」
「どちらのリスクが高い」
「わからない」
ロンはため息をついた。
「久しぶりに聞いたな、そのわからない」
「さっきから何度も言っている」
「今回は特に困るわからない、という意味だ」
◇◇◇◇
ポワロが口を開いた。
「一つ確認したいんだけど」
「なんだ」とホームズが訊いた。
「セレン・ヴォーンは、こちらが住所を持っていることを知っているかな」
部屋が静かになった。
「どういう意味だ」とロンが訊いた。
「セノ氏が書いた、とするなら。セノ氏はセレン・ヴォーンと長い付き合いがある。セレン・ヴォーンが、セノ氏が自分の住所を知っていることは、当然知っているはずだ」
「そうなる」
「ならば、セノ氏が何かを残した場合、その中に住所が含まれている可能性も、セレン・ヴォーンは考えているかもしれない」
「待っている、ということか」とホームズが言った。
「来ることを前提にしている可能性がある」
ロンが眉を寄せた。
「待っているとしたら、来てほしい側なのか、来てほしくない側なのかどっちだ」
「それが問題だ」とポワロが言った。
「来てほしい、なら」
「罠かもしれない。あるいは、話したいことがある」
「来てほしくない、なら」
「それでも来るとしたら、こちらが先手を取れる」
ロンが頭を掻いた。
「ますますわからなくなってきた」
「整理できていないわけじゃない」とホームズが言った。
「どういうことだ」
「わかっていることが増えた分、判断材料も増えた。判断材料が増えると、考えることも増える。それだけだ」
「前向きな言い方だな」
「事実だ」
◇◇◇◇
ライラが静かに手を上げた。
全員が見た。
「私が行きます」
「だめだ」とロンが即座に言った。
「でも」
「だめだ」
「理由を聞かせてください」
「危ない」
「それはみんなも同じです」
「お前は関係者だ」
「だから行く理由があります」
ロンが口を開こうとした。
ホームズが先に言った。
「ライラ、なぜ行きたい」
ライラは少し考えた。
「セレン・ヴォーンは、父と一緒に調べていた人物です。父のことを知っている。今の父がどこにいるか、あるいは何を考えているか、知っているかもしれない」
「それはこちらでも訊ける」
「訊けると思います。でも」
ライラは膝の上の手を見た。
「父の古い知り合いが、なぜ裏切ったのか。それを知りたいんです。資料じゃなくて、直接」
部屋が静かになった。
「それは調査じゃなくて、個人的な理由だ」とロンが言った。
「そうです」とライラが答えた。
「個人的な理由で動くのは危ない」
「わかっています」
「わかっていて行くと言っているのか」
「はい」
ロンはしばらく黙った。
ポワロが静かにロンを見た。
ホームズは紙を見ていた。
「……勝手だな」とロンが言った。
「すみません」
「謝るな。勝手だと言っただけだ」
ロンは立ち上がった。
「行くなら全員で行く。一人では行かせない」
ライラが顔を上げた。
「いいんですか」
「よくはない。でも」
ロンは窓の外を見た。
「お前の父上と同じだ。誰も頼んでいないのに、気になるから動く。そういう話には、乗るしかない」
◇◇◇◇
「全員で行くとして」とポワロが言った。
「いつ行く」とホームズが訊いた。
「明日の昼だ」とロンが答えた。
「夜ではないのか」
「夜は向こうが有利になる。明るい時間に、正面から行く。さっきと同じだ。隠れても意味がないなら、正面から動く」
「そうだな」
「全員で行く必要はないかもしれない」とエーテル教授が図書室の入口から言った。
全員が教授を見た。
「どういう意味だ」とロンが訊いた。
「全員で行けば、ここが空になる」
「ここに何かある」
「記録がある。鍵がある。手帳がある」
ロンが少し考えた。
「残る者が必要だ、ということか」
「そうだ」
「誰が残る」
「私が残る」と教授が言った。
「一人か」
「一人で十分だ」
「危なくないか」
「わからない。でも」
エーテル教授は少し間を置いた。
「外より、ここの方が向いている」
ロンは教授を見た。
それから、頷いた。
「わかった。教授は残ってくれ」
「そうする」
◇◇◇◇
「アーティはどうする」とポワロが訊いた。
全員がアーティを見た。
アーティは壁に寄りかかって、目を閉じていた。
しばらくして、目を開けた。
「行く」
「一緒に来るのか」とロンが少し驚いた顔で言った。
「セレン・ヴォーンには、俺も聞きたいことがある」
「何を」
アーティは少し間を置いた。
「字が綺麗な人物のことだ。セノ氏のことを、セレン・ヴォーンがどう思っていたか。それを直接聞きたい」
ライラがアーティを見た。
「父のことを」
「長く調べ続けた人物が、なぜ裏切られたのか。俺も知りたい」
ライラが小さく頷いた。
「一緒に行きましょう」
アーティは何も言わなかった。
でも、首を僅かに縦に動かした。
◇◇◇◇
夜が更けた。
明日の準備を話し合って、全員が部屋に戻った。
ライラは今夜も客間に泊まることになった。
ロンが部屋まで送って、おやすみとだけ言った。
ライラがおやすみなさいと返した。
居間に戻ったロンに、ポワロが紅茶を差し出した。
「飲むか」
「飲む」
二人でしばらく、黙って紅茶を飲んだ。
「ロン」
「なんだ」
「明日、うまくいくと思うか」
ロンは紅茶を一口飲んだ。
「わからない」
「珍しいな、ロンがわからないと言うのは」
「今日だけだ。明日はわかる」
「どうして」
「動いてみればわかる。動く前にわかることは、たかが知れている」
ポワロが小さく笑った。
「それは確かだね」
◇◇◇◇
ホームズは眠らなかった。
居間の椅子に座って、書類を読み直していた。
ランタンの光が、静かに揺れている。
煤棚の上の二本の鍵が、光を反射して鈍く光っている。
手帳を開いた。
セノ氏の字を、もう一度読んだ。
几帳面で、細い字だ。
アーティが言っていた言葉を思い出した。
字が綺麗な人物は、お前に似ていた。
気になるから調べる、と言っていた。
理由はそれだけだ、と。
ホームズは手帳を閉じた。
窓の外で、霧が出ていた。
夜の霧が、町を白く包んでいる。
霧の家という名前は、ここから来たのかもしれない、とホームズは思った。
いや、違う。
この館が霧を呼ぶのかもしれない。
そういう場所が、世界には存在する。
ホームズは目を閉じた。
金と緑の瞳が、静かに暗くなった。
明日になれば、霧は晴れるかもしれない。
あるいは、もっと深くなるかもしれない。
どちらでも構わなかった。
霧の中を歩くことは、嫌いではない。
◇◇◇◇
第十一話 了




