第十二話「北の区画と、開いていた扉」
◇◇◇◇
翌日の昼前に、四人は霧の家を出た。
ホームズ、ロン、ポワロ、ライラ、アーティの五人で行く予定だったが、玄関を出る直前にエーテル教授が図書室から顔を出した。
「一つだけ」
「なんだ」とロンが言った。
「セレン・ヴォーンは、左利きだ」
全員が教授を見た。
「どこで知った」とホームズが訊いた。
「冊子に書かれていた署名が左利きの字だった。念のため」
「役に立つかもしれない」
「立たないかもしれない。でも知っていて損はない」
教授は図書室に戻った。
扉が静かに閉まった。
ロンが小声でポワロに言った。
「教授はああいう人だったのか」
「ああいう人だ」とポワロが小声で返した。
「いつから気づいていた」
「最初から」
「俺は最近気づいた」
「遅い」
◇◇◇◇
北の区画は、霧の家から歩いて三十分ほどの場所だった。
古い住宅が並ぶ一角で、道が細く、石畳が続いている。
あの川沿いの道とは違う種類の古さだ。
こちらは人の気配がある。
洗濯物が干してあったり、窓から光が漏れていたり、どこかで料理のにおいがしたりする。
「生活している場所だ」とポワロが言った。
「ノーマン側の人間にしては、地味な住まいだな」とロンが言った。
「目立ちたくないのかもしれない」とホームズが言った。
「あるいは」とライラが静かに言った。
「昔からここに住んでいる人なのかもしれません。ノーマンと関わる前から」
全員が少し黙った。
人には、関わる前の生活がある。
それはそうだ、とロンは思った。
◇◇◇◇
住所の建物は、すぐに見つかった。
二階建ての古い建物で、一階が石造り、二階が木造だ。
表に小さな看板が出ている。
字が薄くなっていて、読みにくいが、何か商売をしていた跡らしい。
「今は住居だけか」とロンが言った。
「そう見える」とホームズが答えた。
「人がいるか」
「窓に光がある。昼だが、カーテンを閉めている」
ライラが建物を見上げた。
「行きましょう」
「待て」とロンが言った。
「何を待つんですか」
「少し見る。急ぐことはない」
「でも」
「急いで失敗するより、少し待って確認する方がいい」
ライラは少し口をつぐんだ。
それから、頷いた。
◇◇◇◇
五人で建物の周囲を確認した。
裏に回ると、小さな庭があった。
庭に、椅子が一脚出ている。
誰かが最近座っていたらしく、座面に人の形が残っている。
「一人暮らしか」とアーティが言った。
「そう見える」とホームズが答えた。
「足跡が一人分しかない」
「庭に来るのは習慣らしい。草の踏み方が均一だ。毎日同じ場所を歩いている」
ロンが裏の窓を見た。
「カーテンが開いている。表は閉めていたのに」
「裏は気にしていない、ということだ」
「こちらが来ることを、想定していなかった」
「裏から来ることを、だ」
ロンが少し考えた。
「表から行くか」
「表から行く」
◇◇◇◇
表に回った。
ホームズが扉の前に立って、ノッカーに手をかけた。
叩こうとした。
扉が、開いていた。
完全に閉まっていない。
わずかに開いている。
外から押せば、そのまま開く。
全員が顔を見合わせた。
「開いている」とロンが言った。
「見ればわかる」
「わかっているから言った。どうする」
ホームズが扉を軽く押した。
軋みもせずに、静かに開いた。
中から、空気が出てきた。
古い木と、紙と、もう一つ。
ホームズの表情が、わずかに変わった。
「どうした」とロンが訊いた。
「においがする」
「何の」
「薬品だ。医療用の、消毒に使う類のもの」
ロンの耳が、ぴたりと伏せた。
「誰かが怪我をしているか」
「あるいは、した後か」
◇◇◇◇
中に入った。
土間から上がると、廊下が続いている。
左右に扉が一つずつ。
正面に階段。
廊下の奥に、光がある。
一番奥の扉から、薄い光が漏れている。
「声をかける」とホームズが言った。
「誰かいますか」
返事がなかった。
もう一度。
「セレン・ヴォーンさん、いますか」
静寂。
ロンが小声で言った。
「いないのか」
「光がある」とポワロが返した。
「電灯を消し忘れた可能性もある」
「においがする」とアーティが言った。
「薬品か」とホームズが訊いた。
「違う。人のにおいだ。最近、ここにいた」
「最近というのは」
「今日だ」
◇◇◇◇
奥の扉まで進んだ。
ホームズが扉をノックした。
返事がない。
扉を開けた。
部屋の中は、薄暗かった。
カーテンが閉まっているせいで、光が少ない。
テーブルが一つ、椅子が二脚、棚が壁に沿って並んでいる。
棚に、本が並んでいる。
テーブルの上に、書類が広げてある。
椅子の一つに、上着がかかっている。
人はいない。
「いない」とロンが言った。
「でも、いた形跡がある」とポワロが言った。
テーブルの上の書類を、ホームズが確認した。
紅茶のカップが一つ。
まだ温かい。
「少し前まで、ここにいた」
「どこへ行った」
「わからない」
ライラが部屋を見回した。
「逃げたんでしょうか」
「急いで出た形跡はない」とホームズが答えた。
「上着が残っている。外は寒い。急いで逃げたなら、上着を置いていかない」
「では」
「用事ができて出かけた。あるいは」
ホームズがカップを見た。
「出かけているところを捕まえられた」
部屋が静かになった。
◇◇◇◇
アーティが窓のカーテンを少し開けた。
裏庭が見えた。
椅子が一脚、出たままになっている。
「さっきと変わらない」とロンが言った。
「一つ増えている」とアーティが言った。
「何が」
「足跡だ。裏庭の草に、新しい足跡がある」
「さっきはなかったのか」
「一人分しかなかった。今は二人分ある」
ロンが窓に近づいた。
裏庭の草を見た。
言われてみれば、確かに踏み方が違う部分がある。
「誰かが来た」
「裏から来た人間がいる」
「セレン・ヴォーンを連れて行ったのか」
「わからない。でも」
アーティがカーテンを戻した。
「もう一つ残っている」
「何が」
アーティがテーブルの上を示した。
書類の下に、何かが挟まっていた。
紙が一枚。
ホームズが取り出した。
広げた。
短い文章が書かれていた。
走り書きで、急いで書いたとわかる字だ。
だが、几帳面な、細い字だ。
ホームズが読んだ。
「セノ氏の字だ」
全員が息を飲んだ。
◇◇◇◇
紙にはこう書かれていた。
『間に合わなかった。セレンは連れていかれた。場所は知っている。ノーマンの倉庫だ。一人では無理だった。頼む』
ホームズが紙を持ったまま、動かなかった。
ロンが低い声で言った。
「セノ氏がここにいたのか」
「いた。俺たちより先に」
「セレン・ヴォーンを助けに来て、間に合わなかった」
「そうなる」
「なぜノーマンがセレン・ヴォーンを連れて行く必要がある」とポワロが言った。
「用が済んだからだ」とホームズが答えた。
「用が済んだ」
「セレン・ヴォーンから必要な情報は全部取った。もう必要ない。あとは消すだけだ」
部屋が静かになった。
消す、という言葉が、部屋の空気に溶けて、冷たくなった。
ライラが紙を見た。
「頼む、と書いてある」
「そうだ」
「父が、頼む、と書いた」
「そうだ」
ライラが顔を上げた。
目が、静かに決まっていた。
「倉庫へ行きましょう」
◇◇◇◇
ロンが壁に手をついた。
「待て」
「待てない」
「一分だけ待て」
ライラが口をつぐんだ。
ロンが全員を見た。
「状況を整理する。セレン・ヴォーンはノーマンの倉庫に連れて行かれた。セノ氏は一人では無理だと言っている。ノーマンには人間がいる、ということだ」
「そうなる」とホームズが言った。
「俺たちは今、五人だ。相手が何人いるかわからない。倉庫の構造もわからない」
「わからないことが多い」
「多い。だから聞く。それでも行くか」
ホームズが答えた。
「行く」
ポワロが続けた。
「行くよ」
アーティが頷いた。
ライラは何も言わなかった。
言わなくてもわかる、という顔をしていた。
ロンは全員を見た。
それから、深く息を吐いた。
「わかった。行く。ただし」
「ただし」
「無茶はするな。動く前に考える。考える時間がなければ、俺の判断に従え」
「了解だ」とホームズが言った。
「わかった」とポワロが言った。
アーティは何も言わなかった。
それがアーティの了解だった。
ライラが静かに言った。
「ありがとうございます」
「礼は後だ」とロンが言った。
「行くぞ」
◇◇◇◇
五人が部屋を出た。
廊下を抜けて、扉を出た。
外の空気が冷たかった。
昼の光が、石畳の上に落ちている。
ホームズが紙をポケットにしまった。
頼む、という二文字が、ポケットの中で静かに存在している。
誰も頼んでいない調査を、ずっと続けてきた。
だが今回は、違う。
頼まれた。
それが何かを変えるわけではないが、ホームズは少しだけ、足の踏み出し方が変わった気がした。
金と緑の瞳が、北の空を見た。
倉庫は、川沿いの区画に隣接している。
あの×印の、隣に。
◇◇◇◇
第十二話 了




