第十三話「ノーマンの倉庫と、待っていた人物」
◇◇◇◇
倉庫までの道を、五人は速足で歩いた。
走らなかった。
ロンが走るなと言った。
理由を訊いたら、走ると目立つ、と言った。
ライラが少し急きたそうにしていたが、ロンが隣を歩いたので、速度を合わせるしかなかった。
ホームズが先頭を歩いた。
地図は頭に入っている。
セノ氏の手帳に、倉庫の場所が記されていた。
川沿いの古い区画、あの石造りの部屋に隣接した場所だ。
「遠くない」とホームズが言った。
「十分か」とロンが訊いた。
「十五分ほどだ」
「急ぎすぎず、遅すぎず歩く」
「わかっている」
ポワロが二人の後ろを歩きながら、周囲を確認していた。
人通りは少ない。
この時間帯、この辺りを歩く人間は多くない。
「尾行されている感じはないね」と小声でアーティに言った。
「今のところは」とアーティが小声で返した。
「今のところ、というのは」
「ここまでは、だ」
「倉庫に近づくと変わるかもしれない」
「かもしれない」
ポワロは前を向いた。
ホームズの後頭部を見ながら、歩いた。
◇◇◇◇
川沿いの道に入ったとき、空気が変わった。
湿気が増した。
においが変わった。
川のにおいと、古い木のにおいと、それから。
「薬品だ」とホームズが静かに言った。
「さっきのと同じか」とロンが訊いた。
「違う種類だ。工業用に近い。倉庫で使うものだ」
「近いな」
「もうすぐだ」
石畳の道が細くなった。
両側に高い塀が続いている。
塀の向こうに、大きな建物の屋根が見えてきた。
倉庫だ。
二階建て、いや、三階建てか。
古い木造の構造物で、外壁が黒ずんでいる。
雨風にさらされた時間の長さが、見た目に出ている。
「大きいな」とロンが言った。
「中の構造がわからない」とホームズが言った。
「どこから入る」
「まず正面を確認する」
◇◇◇◇
正面に回った。
大きな引き戸が、閉まっている。
鍵がかかっているかどうか、この距離ではわからない。
表に人の気配はない。
「静かすぎる」とポワロが言った。
「そうだな」とロンが同意した。
「人がいないのか、隠れているのか」
「どちらかだ」
ライラが建物を見上げた。
「三階の窓に、光がある」
全員が見た。
確かに、三階の端の窓から、薄い光が漏れている。
「昼間に明かりをつけている」とホームズが言った。
「中が暗いからだ。窓が少ない」
「人がいる」
「少なくとも、一人は」
ロンが引き戸の前に立った。
手をかけた。
引いた。
開いた。
全員が顔を見合わせた。
「また開いている」とロンが言った。
「開けておいたんだ」とアーティが言った。
「誰が」
「俺たちのために」
部屋が静かになった。
いや、正確には、外の道が静かになった。
「待っているということか」とポワロが静かに言った。
「そうなる」とホームズが答えた。
「ノーマンが」
「あるいは、別の誰かが」
◇◇◇◇
中に入った。
一階は広い空間だった。
天井が高く、柱が何本も立っている。
かつては物が積まれていたのだろうが、今はがらんとしている。
埃が積もっていて、足跡がつく。
足跡を見た。
複数人分ある。
最近のものだ。
「三人か四人だ」とホームズが言った。
「こちらは五人だ」とロンが言った。
「数の問題じゃないかもしれない」
「そうだが、知っておいて損はない」
足跡を追った。
足跡は奥の階段へ向かっている。
「上だ」とホームズが言った。
「三階の光に向かっている」とポワロが言った。
「行くぞ」とロンが言った。
階段は古く、踏むたびに音がした。
できるだけ端を歩いた。
それでも、完全には消せなかった。
「聞こえているな」とロンが小声で言った。
「聞こえているだろう」とホームズが小声で返した。
「構わないか」
「構わない。どうせ待っているなら、来ることはわかっている」
◇◇◇◇
二階は倉庫として使われていた。
棚が並んでいて、箱が積まれている。
ホームズが一つ開けた。
書類だ。
この町の取引記録と思われる書類が、きちんと整理されて入っている。
「ノーマンの記録か」とロンが言った。
「そうだ。本物の記録がここにある」
「消した記録とは別に、本物を持っていた」
「消したように見せかけて、保管していた。証拠として使うためだ」
「何の証拠に」
「誰かを脅すための、だ」
ロンが静かに息を吐いた。
「セレン・ヴォーンを脅すためにも、使っていたのか」
「おそらく」
ライラが棚を見た。
「父の名前もありますか」
「探せばあるかもしれない。でも今は上だ」
「そうですね」
ライラは棚から目を離した。
足を踏み出した。
◇◇◇◇
三階への階段を上がりきったとき、扉があった。
扉の下から、光が漏れている。
全員が扉の前で止まった。
ロンが先頭に立った。
ホームズが隣に立った。
ポワロとライラとアーティが後ろに並んだ。
ロンが扉をノックした。
三回。
静寂。
それから、声がした。
「どうぞ」
男の声だった。
落ち着いた、穏やかな声だ。
急いでいる様子も、警戒している様子もない。
ロンが扉を開けた。
◇◇◇◇
部屋は広くはなかった。
窓が二つ、壁に棚、中央にテーブルと椅子。
テーブルの向こうに、一人の男が座っていた。
年のころは六十前後か。
白髪交じりの髪を整えて、きちんとした上着を着ている。
耳は丸く、少し大きい。
表情は穏やかで、口元に笑みを浮かべている。
写真で見た顔だ。
「ガリス・ノーマン」とホームズが言った。
「そうです」と男が答えた。
「よく来てくれました」
アーティが言っていた通りだった。
笑っている。
穏やかに、自然に、まるで客を迎えるように笑っている。
「セレン・ヴォーンはどこだ」とロンが言った。
「隣の部屋にいます。安全ですよ」
「本当か」
「確認してもいい。扉は開いています」
ロンがポワロに目をやった。
ポワロが頷いて、横の扉へ向かった。
扉を開けた。
中に、人がいた。
小柄な人物が、椅子に座っている。
縛られてはいない。
怪我もないように見える。
ただ、顔が青白い。
ポワロが振り返って、頷いた。
「いる。無事だ」
◇◇◇◇
ロンがノーマンを見た。
「何が目的だ」
「話がしたかった」とノーマンが答えた。
「こんな方法で」
「こうしないと、来てもらえないと思ったので」
「来てほしかったなら、最初から普通に来ればよかった」
「そうですね」
ノーマンが少し笑った。
「でも、みなさんが自分で辿り着いてくれた方が、話が早い。記録を読んで、手帳を読んで、冊子を見て、ここまで来た。それなら、説明する手間が省ける」
「俺たちを誘導したのか」
「誘導というより、道を開けた、という方が正確でしょうか」
ロンの耳が、わずかに後ろへ傾いた。
「セレン・ヴォーンを連れてきたのは」
「彼女を安全な場所に置きたかった。外にいる方が危ない」
「何から」
ノーマンの笑みが、少しだけ変わった。
穏やかなままだが、その奥に何かが見えた。
「私以外の人間から、です」
◇◇◇◇
ホームズが口を開いた。
「話を聞こう」
全員がホームズを見た。
「ホームズ」とロンが言った。
「聞かなければ判断できない。話せ、ノーマン」
ノーマンが、初めて、ホームズをまっすぐに見た。
「あなたが、マーティス・シャーロックホームズさんですか」
「そうだ」
「セノさんから聞いていました。霧の家に、気になるから調べる人間がいると」
「セノ氏から」
「長い付き合いですよ、セノさんとは」
全員が静かになった。
「敵対していたんじゃないのか」とロンが言った。
「敵対していた時期もあります。でも」
ノーマンはテーブルの上に手を置いた。
「長い付き合いの中で、人間関係は変わる。憎んでいた相手を、いつの間にか頼っていることもある」
「どういう意味だ」
ノーマンが静かに言った。
「セノさんに、頼まれたんです。八日前に」
部屋が静かになった。
ライラが、息を飲んだ。
◇◇◇◇
「父が」とライラが言った。
「あなたに」
「はい」
ノーマンがライラを見た。
「ライラさんですね。お父上に似ている」
「何を頼まれたんですか」
ノーマンは少し間を置いた。
「娘を、守ってほしい、と」
部屋の空気が、静かに変わった。
ライラが動かなかった。
動けなかったのかもしれない。
ロンが静かに、ライラの隣に立った。
ノーマンが続けた。
「セノさんは八日前に私のところへ来た。自分は動けなくなるかもしれない。そうなったとき、娘が動き始めるだろう。その娘を、見ていてほしい、と」
「見ていてほしい」とホームズが繰り返した。
「そのために、封筒をライラさんに渡した。霧の家へ向かうように。そうすれば、あの五人がいる。あの人たちなら、娘を任せられると、セノさんが言っていた」
「あの五人、というのは」
「霧の家の住人たちです。セノさんは、ずっと見ていたらしい。遠くから」
◇◇◇◇
アーティが、静かに口を開いた。
「セノ氏は今、どこにいる」
ノーマンがアーティを見た。
「あなたが、アーティさんですね。セノさんがよく話していた」
「どこにいる」
「安全な場所です。私が用意した場所に」
「ノーマンが用意した」
「はい。敵だと思っているでしょうが、今は違う。セノさんの依頼を受けた立場です」
ロンが腕を組んだ。
「信じろというのか」
「信じなくていい。確認してもらえればいい」
「どうやって」
ノーマンがテーブルの上の封筒を、ホームズへ向けて滑らせた。
「セノさんから、預かっていました。みなさんが来たときに渡すように、と」
ホームズが封筒を取り上げた。
表に、一行書いてある。
几帳面で、細い字だ。
『ホームズへ。信じるかどうかは、君が決めていい』
ホームズが封筒を開けた。
中を読んだ。
一枚、二枚、三枚。
読み終わった。
ホームズが封筒を下ろした。
金と緑の瞳が、静かに細くなった。
「ロン」
「なんだ」
「セノ氏に会いに行く必要がある」
「どういうことだ」
ホームズが封筒をロンに渡した。
ロンが読んだ。
表情が、少しずつ変わった。
読み終わって、ロンは封筒を閉じた。
「……そういうことか」
「そういうことだ」
「面倒なことになったな」
「なった」
「でも」
ロンが顔を上げた。
「やるしかないな」
「やるしかない」
◇◇◇◇
ライラが二人を見た。
「何が書いてあったんですか」
ホームズがライラを見た。
少し間を置いた。
「お父上が、長い間隠していたことが書いてあった」
「何を」
「この話の、本当の始まりだ」
「本当の始まり」
「俺たちが思っていたより、ずっと前から始まっていた話だ」
ライラは封筒を見た。
ホームズがライラに封筒を渡した。
「読んでくれ。お父上が、君に読んでほしいと書いていた」
ライラが封筒を受け取った。
両手で、静かに持った。
開けた。
読み始めた。
部屋が静かになった。
ノーマンが窓の外を見た。
ロンが床を見た。
ポワロがライラを見た。
アーティが目を閉じた。
ホームズが、何も見ずに立っていた。
ライラが読み終わった。
しばらく、封筒を持ったまま、動かなかった。
それから、顔を上げた。
目が、赤くなっていた。
でも、泣いていなかった。
「行きましょう」
静かな、落ち着いた声で、ライラは言った。
「父に、会いに」
◇◇◇◇
第十三話 了




