第十四話「セノ氏と、本当の始まり」
◇◇◇◇
ノーマンが案内した。
倉庫を出て、川沿いの道を少し戻り、細い路地に入った。
路地の奥に、古い建物がある。
一階建て、石造り、小さな窓が二つ。
表から見ると、廃屋のように見える。
「ここです」とノーマンが言った。
「廃屋に見える」とロンが言った。
「そう見えるように、してあります」
「誰が」
「私が。セノさんの指示で」
ロンが鼻から息を抜いた。
「用意周到だな、セノ氏は」
「昔からそうです」とノーマンが静かに笑った。
「遠回りをする人だと、娘さんが言っていました」
「その遠回りの中に、いつも意味があった、とも言っていましたよ」
ライラが少し顔を上げた。
ノーマンと目が合った。
ノーマンが小さく頷いた。
「中にいます。扉は開いています」
◇◇◇◇
ライラが先に入った。
扉を開けて、中に入った。
他の全員は、外で待った。
ロンが言った。
「最初は二人にさせる」
誰も異論を言わなかった。
外の空気は冷たかった。
川の音が、低く聞こえていた。
ノーマンが石の塀に背を預けた。
ホームズがその隣に立った。
「封筒の中身を、全部話してもらえるか」
「そのつもりだ」とノーマンが答えた。
「どこから話す」
「三十年以上前から話した方がいい」
「長い話だ」
「長い話です。でも」
ノーマンが川の方を見た。
「短くまとめると、嘘になる話なので」
ホームズは少し考えた。
「聞く」
◇◇◇◇
ノーマンが話し始めた。
「三十四年前、私の父がこの町で土地を巡る問題を起こしました。あの区画の住人を追い出して、記録を消した。私はその頃まだ若く、詳しいことを知らなかった」
「知らなかった」
「信じてもらえないかもしれないが、本当に知らなかった。父がやっていることを、事後になって知った」
「それを知ったのはいつだ」
「二十年前です。セノさんが、私のところへ来た。父のやったことを、全部話してくれた」
「敵として来たのではないのか」
「最初はそうでした。証拠を持って、公にするつもりだった、とセノさんは言っていた。でも私と話して、方針を変えた」
「なぜ」
「私が知らなかったことが、わかったからだと思います」
ホームズが少し間を置いた。
「それだけで、方針を変えるか」
「変えませんよ、普通は」とノーマンが静かに言った。
「でもセノさんは、人を見る目がある。私が本当に知らなかったことを、見た。それから」
ノーマンは少し間を置いた。
「私が、父のやったことを、正したいと思っていることも、見た」
◇◇◇◇
「正す、というのは」とロンが聞いていた。
「追い出した住人たちの記録を、元に戻すことです。土地の権利を、本来の所有者に戻すことです」
「できるのか、今から」
「簡単ではない。でも、できないことではない。そのために、二十年かけて準備してきた」
「セノ氏と一緒に」
「セノさんが表で動いて、私が裏で動いた。記録を集めて、証拠を整えて、法的に動ける状態を作ってきた」
ポワロが静かに言った。
「でもセレン・ヴォーンが情報を漏らした」
「そうです。十二年前に、セレンが私たちの計画の一部をノーマン家の古い関係者に売った」
「ノーマン家の古い関係者、というのは」
「父の時代から関わっていた人物です。私が計画を進めることを、快く思っていなかった。ノーマン家の利益を守ろうとする者が、今もいる」
ロンが眉を寄せた。
「つまり、ノーマンの中に、二つの勢力がある」
「あった、という方が正確です。今はもう、ほとんど残っていない。でも十二年前は、まだ力があった」
「セレン・ヴォーンは、その勢力に情報を売った」
「脅されたんです」とノーマンが静かに言った。
「守りたいものがあった、とアーティさんが言っていましたね」
アーティが顔を上げた。
「聞いていたのか」
「壁は薄い」
アーティは少し黙った。
「何を守りたかったんだ」
「家族です。セレンには、この町の外に家族がいる。その家族を、脅された」
◇◇◇◇
「セレン・ヴォーンは今、どういう状況だ」とホームズが訊いた。
「情報を売ってからは、ずっと古い関係者の監視下にあった。自由に動けなかった。でも最近、その関係者が弱ってきた。動ける状態になってきた」
「だから最近の冊子に名前が出た」
「セレンが、自分から取引の記録を残したんです。証拠として。古い関係者を追い詰めるために」
「自分も記録に残る覚悟で」
「そうです。自分が売ったという事実は消せない。でも、理由と経緯を記録として残せば、判断は別になる」
ポワロが静かに言った。
「セレン・ヴォーンを倉庫へ連れてきたのは」
「古い関係者の残党が動いたからです。昨日、セレンの家を突き止めて、連れていこうとした。私が先に動いて、先に連れてきた」
「守るために」
「セノさんが一人で助けに来たのは知っています。間に合わなかった、と書き置きを残して、霧の家へ向かったんでしょう」
「俺たちを呼びに」とロンが言った。
「そうなります」
◇◇◇◇
「古い関係者というのは、今どこにいる」とホームズが訊いた。
「それが問題です」
ノーマンの表情が、初めて少し硬くなった。
「昨日の時点では、この町にいた。でも今日の朝から、動きが見えない」
「どういうことだ」
「準備をしているんだと思います。最後の手を打とうとしている」
「最後の手」
「倉庫の二階にある記録を、全部処分することです。あの記録がなくなれば、証拠が消える。二十年かけて準備してきたものが、全部無駄になる」
ロンが立ち上がった。
「倉庫に戻る必要があるのか」
「そうなります。でも」
「でも」
「一人では動けない。私の側の人間は、今は少ない。古い関係者を抑えておくのに、手が足りない」
ロンがホームズを見た。
ホームズがロンを見た。
「また頼まれたな」とロンが言った。
「そうなった」とホームズが答えた。
「誰も頼んでいない、とは言わないのか」
「今回は頼まれた」
「珍しいな」
「そうだ」
◇◇◇◇
扉が開いた。
ライラが出てきた。
目が少し赤い。
でも、顔は落ち着いていた。
「父が話したいそうです」
全員が中を見た。
「全員で、ですか」とポワロが訊いた。
「全員で、と言っていました」
「歩けるのか」とロンが訊いた。
「少し足を痛めているらしいですが、話すことはできます」
「足を」
「逃げるときに、だそうです」
ロンが小さく息を吐いた。
「無茶をする人だな」
「そういう人です」とライラが静かに笑った。
◇◇◇◇
全員で中に入った。
部屋は小さかった。
椅子が二脚と、簡単な寝台と、小さな暖炉。
暖炉に火が入っていて、部屋が暖かい。
寝台に、一人の男が座っていた。
年のころは五十代か。
細い体で、少し猫背だ。
耳は丸く、白髪が混じり始めている。
足に包帯が巻いてある。
顔を見た瞬間、ライラに似ていると思った。
いや、ライラが父親に似ているのだ。
男がゆっくりと顔を上げた。
全員を見た。
それから、静かに笑った。
几帳面で、細い、字を書く人間の笑い方だった。
「来てくれましたか」
「来た」とホームズが答えた。
「遠回りをさせてしまいました」
「気にしない。遠回りの中に意味があった」
「娘から聞いたんですね」
「そうだ」
男が、アーティを見た。
「アーティ」
アーティが前に出た。
「久しぶりだ」
「久しぶりです。大きくなった」
「変わっていない」
「あなたも変わっていない」
アーティが静かに言った。
「心配していた」
男が少し目を細めた。
「それは、珍しい」
「たまに心配する」
「そうか」
◇◇◇◇
男が全員を見渡した。
「まず、礼を言わせてください。娘を、ここまで連れてきてくれた」
「礼はいらない」とロンが言った。
「そうですか。では」
男が少し背筋を伸ばした。
「説明させてください。封筒に書いたことの続きを」
「聞く」
「ノーマンから、聞きましたか。三十年以上前の話を」
「聞いた」
「では、私が話すのは、もう少し後の話です。二十年前、ノーマンと話してから、私がどう動いたか」
「話してくれ」
男が口を開いた。
「二十年前、私はノーマンと協力することにした。でも、一人で決めたわけじゃない。当時、一緒に調べていた仲間がいた。三人です」
「あの部屋の、四人か」
「そうです。私を含めて四人。私がノーマンと話すことを、三人に説明した。二人は同意してくれた。でも一人は」
男が少し間を置いた。
「同意しなかった」
「セレン・ヴォーンか」とホームズが言った。
「最初は反対だった。ノーマンを信じるべきではない、と。でも、最終的には同意してくれた。それからしばらくは、四人で動いていた」
「しばらくは、というのは」
「十二年前に、セレンが情報を売るまでは」
◇◇◇◇
男が続けた。
「セレンが情報を売った理由を、私は後から知った。家族を脅されていた。それを聞いて、責めることができなかった」
「でも計画に支障が出た」とホームズが言った。
「出ました。古い関係者に、計画の一部が知られた。それ以来、動き方を変えなければならなかった。表に出て動くことが難しくなった」
「それで八日前に、隠れることにした」
「古い関係者が、最後の手を打とうとしていることがわかったからです。記録を処分しようとしている。それを防ぐためには、誰かに動いてもらうしかなかった」
「俺たちに」
「霧の家の人たちに」
男がホームズを見た。
「あなたのことは、長い間、遠くから見ていました。気になるから調べる。理由はそれだけ。そういう人が、霧の家に来た。それを知ったとき、ここへ来る人間が来た、と思いました」
ホームズは少し黙った。
「なぜ俺たちを選んだ」
「選んだのではないですよ」
男が静かに笑った。
「霧の家がそういう場所だから、自然にそういう人間が集まった。私は、待っていただけです」
「三十年以上」
「時間はかかりましたが、来てくれた」
◇◇◇◇
「本当の始まりを話してほしい」とホームズが言った。
「封筒に書いてあったことの、続きだ」
男が頷いた。
「霧の家の話ですね」
「そうだ。あの館は、最初からこの話の中にあった。誰が建てたのか、なぜあの場所に建てたのか」
男は少し間を置いた。
「私の祖父が建てました」
部屋が静かになった。
「祖父は、あの区画の住人の一人でした。三十四年前に、追い出された側の人間です」
「それで」とロンが静かに言った。
「追い出される前に、川沿いの土地に館を建てた。記録を残す場所として。自分たちの存在を、消させないために」
「霧の家が、最初から記録のための場所だった」とポワロが言った。
「そうです。祖父が建て、最初の四人がそこを使い、引き継いで、今のあなたたちに至った」
ホームズが静かに言った。
「つまり、霧の家は最初から、この話の中心にあった」
「そうです」
「俺たちが来たのは、偶然ではなかった」
「霧の家がそういう場所だったから、そういう人間が来た。それが全てです」
◇◇◇◇
ライラが父親の隣に座った。
「お父さん」
「なんだ」
「なぜ私に、直接話してくれなかったんですか」
男は少し間を置いた。
「危なかったからです。知っていれば、関わりたくなる。あなたはそういう人間だから」
「でも、結局関わりました」
「そうですね」
男が静かに笑った。
「あなたも、霧の家の人たちと同じだ。気になることを、放っておけない」
ライラが小さく笑った。
「誰に似たんでしょう」
「さあ」
「お父さんに決まっています」
男が、少し目を細めた。
「そうかもしれない」
◇◇◇◇
ロンが立ち上がった。
「倉庫の記録を守る必要がある。古い関係者が動く前に、手を打たなければならない」
男が頷いた。
「そうです。急いでほしい」
「どう動けばいい」
「記録を、倉庫から出す必要があります。安全な場所へ移す。ノーマンが場所を知っています」
「ノーマンを信じていいのか」
男がホームズを見た。
「どう思いますか」
ホームズは少し考えた。
「信じる、信じないの問題ではない。今は同じ方向を向いている。それで十分だ」
男が頷いた。
「その通りです」
ロンが全員を見た。
「動くぞ。ノーマン、案内してくれ」
「はい」
「セノ氏はここにいてくれ。ライラ」
ライラが顔を上げた。
「一緒に来ますか、それとも」
「行きます」
「そうか」
ロンが男を見た。
「お父上を頼んでいいか、誰かに」
男が口を開こうとした。
「私が残ります」
全員が振り返った。
アーティが言った。
男がアーティを見た。
「アーティ」
「足が痛いなら、一人にするわけにはいかない」
「一人でも大丈夫ですよ」
「大丈夫かどうかの問題ではない」
アーティが椅子を引いて、男の近くに座った。
「行ってきます」とロンが言った。
アーティが小さく頷いた。
男が、アーティを見て、静かに笑った。
几帳面で、細い字を書く人間の笑い方で。
◇◇◇◇
四人と一人が建物を出た。
ホームズ、ロン、ポワロ、ライラ、そしてノーマン。
川の音が、低く聞こえていた。
「急ぐぞ」とロンが言った。
「わかっている」とホームズが答えた。
「珍しくわかっているな」
「急ぐ必要がある状況はわかる」
「たまにはわかるんだな」
「いつもわかっている」
「さっきから何度もわからないと言っていたが」
「状況の判断と、答えのわからなさは別だ」
ロンが鼻から息を抜いた。
「理屈っぽいな」
「事実だ」
ポワロが二人の後ろで、小さく笑った。
川沿いの道を、五人が歩いた。
空は相変わらず低く、重い。
でも、霧は出ていなかった。
◇◇◇◇
第十四話 了




