第十五話「倉庫の記録と、最後の手」
◇◇◇◇
倉庫に戻ったのは、昼を少し過ぎた頃だった。
表の引き戸は、出かけるときのままだった。
開いている。
誰かが入った形跡があるかどうか、ホームズが確認した。
「足跡が増えている」
「何人分だ」とロンが訊いた。
「二人か三人だ。俺たちが出てから、入った者がいる」
「中にいるか」
「わからない。でも」
ホームズが引き戸の端を見た。
「まだ出た形跡がない」
ロンが静かに息を吐いた。
「中にいるな」
「そうなる」
ロンがノーマンを見た。
「古い関係者の残党が、動いたということか」
「そう思います。予想より早かった」
「何人いる」
「三人か、四人だと思います。私の情報では」
「こちらは四人だ」
ロンが全員を見た。
「ポワロ、ライラ、お前たちは外で待て」
「嫌だ」とポワロが言った。
「嫌、とは」
「入る」
「危ない」
「ロンも危ない」
「俺は」
「俺も、が同じように成立する」
ロンが口をつぐんだ。
ポワロが静かに続けた。
「記録を運び出すには、人手がいる。中の状況もわからない。全員で入った方がいい」
「ライラは」
「私も入ります」とライラが言った。
「お前まで」
「父の話です」
ロンはしばらく黙った。
それから、深く息を吐いた。
「わかった。全員で入る。ただし」
「ただし」
「俺の後ろから離れるな。勝手に動くな。何かあったらすぐ声をかけろ」
「わかった」とポワロが答えた。
「はい」とライラが答えた。
ノーマンが頷いた。
ホームズは何も言わなかった。
「ホームズ」
「わかっている」
「言葉で言え」
「わかった」
「よし」
◇◇◇◇
中に入った。
一階は、出かけるときと変わらない。
がらんとした広い空間に、柱が並んでいる。
でも、においが変わっていた。
「煙のにおいがする」とホームズが低く言った。
全員が止まった。
「火をつけるつもりか」とロンが言った。
「記録を燃やすつもりだ」とホームズが答えた。
「急ぐぞ」
階段へ向かった。
今度は音を気にしなかった。
速く動くことの方が、大事だった。
二階に上がった。
棚が並んでいる空間に、二人の人物がいた。
棚から箱を引き出して、中の書類を床に積んでいる。
油のにおいがした。
燃やす準備をしていた。
二人がこちらを見た。
「止まれ」とロンが言った。
二人が動いた。
◇◇◇◇
ロンが前に出た。
一人と向き合った。
相手は体が大きい。
ロンより頭一つ分高い。
「退けと言っている」
相手が返事をしなかった。
そのまま動こうとした。
ロンが動いた。
ロンの動き方は速い。
体が大きい相手に対して、正面から当たらない。
脇から入って、重心を崩す。
相手がよろめいた。
「ロン」とポワロが声をかけた。
「もう一人を頼む」
ポワロがもう一人の前に立った。
ポワロの動き方は、ロンとは違う。
正面に立って、動かない。
相手が動こうとするたびに、少しだけ位置を変える。
相手の動きを読んで、合わせる。
ホームズがライラとノーマンを二階の奥へ誘導した。
「記録を確認する。燃やされていないものを優先して出せ」
「わかりました」とノーマンが答えた。
三人で棚を確認し始めた。
◇◇◇◇
三階から、足音がした。
ホームズが顔を上げた。
「まだいる」
「三階に一人か二人だ」とノーマンが言った。
「上へ行く必要がある」
「記録は」
「二人に任せる。ノーマン、続けてくれ」
「わかりました」
ホームズが階段へ向かった。
「ホームズ」とライラが言った。
「一人で行くな」
「来るか」
「来ます」
「危ない」
「それは全員同じです」
ホームズは少し間を置いた。
「来い」
二人で三階へ上がった。
◇◇◇◇
三階の扉の前に立った。
光が漏れている。
ホームズが扉を開けた。
部屋の中に、一人の人物がいた。
年のころは七十前後だろうか。
小柄で、白髪で、片手に書類の束を持っている。
もう片方の手に、小さな火種を持っていた。
「動くな」とホームズが言った。
老人がこちらを見た。
目が、ノーマンに似ていた。
いや、違う。
ノーマンの目は穏やかだ。
この老人の目は、鋭い。
何十年も、鋭くあり続けた目だ。
「ノーマン家の」とホームズが言った。
「古い関係者だ」
老人が笑った。
「来るのが早かった」
「少し早かったか」
「もう少し遅ければ、全部終わっていた」
「終わらなかった」
「まだ終わっていない」
老人が手の中の火種を、書類に近づけた。
「止めろ」
「止めない」
ライラが前に出た。
「お願いします」
老人がライラを見た。
「止めてください。あの記録は、追い出された人たちの、存在の証明です。燃やしていいものじゃない」
老人が少し黙った。
「存在の証明、か」
「そうです」
「それを守って、どうする」
「元に戻すんです。記録を。土地を。消された人たちの、歴史を」
老人がライラをじっと見た。
「誰だ、お前は」
「セノの娘です」
老人の目が、わずかに動いた。
◇◇◇◇
「セノの娘」
老人が繰り返した。
「そうです」
「セノが、娘を使うようになったか」
「使ったんじゃないです。父は私に、関わるなと言い続けた」
「では、なぜいる」
「気になったから来ました」
老人が、少しの間、ライラを見た。
それから、視線をホームズへ移した。
「お前は誰だ」
「霧の家の住人だ」
「霧の家」
老人が眉を動かした。
「あの館に、今も人が住んでいるのか」
「住んでいる」
「何人だ」
「五人だ」
老人が天井を見た。
それから、静かに息を吐いた。
「あの館は、しぶといな」
「建てた人間がしぶとかったんだろう」
老人が、少し表情を変えた。
笑みではなかった。
苦笑でもなかった。
何か、長い時間をかけて作り上げた硬さが、少しだけ緩んだような顔だった。
「建てた人間を、知っていた」
「そうか」
「追い出した側の人間だから、よく覚えている」
老人の手が、わずかに下がった。
「しぶとい人間だった。何度押しても、消えなかった」
「消えなかった」
「消えなかったから、こうなった」
老人が書類を見た。
手の中の火種を見た。
それから、ゆっくりと火種を消した。
◇◇◇◇
床に、書類を置いた。
老人が椅子に腰を下ろした。
「疲れた」
ホームズが老人を見た。
「記録を燃やすのをやめるのか」
「やめる」
「なぜ」
老人が窓の外を見た。
「もういい、と思った」
「それだけか」
「それだけだ。長くやりすぎた。父の代から数えれば、三十年以上だ。疲れた」
ホームズは少し黙った。
「後悔しないか」
「するかもしれない。でも、今はしていない」
老人がライラを見た。
「セノは元気か」
「足を痛めていますが、元気です」
「そうか。あいつも、しぶといな」
「似た者同士じゃないですか」とライラが静かに言った。
老人が、少し目を丸くした。
それから、低く笑った。
「そうかもしれない」
◇◇◇◇
二階からロンの声がした。
「ホームズ、三階は大丈夫か」
「大丈夫だ」とホームズが返した。
「下の二人は止めた。そっちは」
「止まった」
「記録は」
「無事だ。燃やされていない」
しばらく間があった。
「全部か」
「全部だ」
また間があった。
それから、
「よかった」
という声がした。
珍しく、ロンがそういう言い方をした。
ポワロが隣で、小さく笑ったのが聞こえた気がした。
◇◇◇◇
記録を運び出すのに、一時間ほどかかった。
二階の棚にあった書類を、全部箱に詰めた。
重い箱を、何度も往復して運んだ。
ロンが一番重い箱を担いだ。
ノーマンが次に重い箱を担いだ。
ホームズとポワロとライラが残りを分けた。
老人は三階に座ったままだった。
逃げなかった。
逃げる気もないらしかった。
「あの老人はどうする」とロンがノーマンに小声で訊いた。
「然るべきところへ引き渡します。私が対処します」
「任せていいか」
「任せてください。これは、私が決着をつけるべき話です」
ロンが頷いた。
「頼んだ」
◇◇◇◇
記録を、ノーマンが用意した安全な場所へ運んだ。
古い公文書の保管施設の、一角だった。
鍵のかかった部屋に、書類を収めた。
最後の箱を棚に入れたとき、全員がしばらく黙っていた。
「終わったのか」とロンが言った。
「一段落した」とホームズが答えた。
「まだ続くか」
「記録を元の所有者に戻す手続きがある。法的な整理がある。時間がかかる」
「俺たちがやることか」
「俺たちにできることと、できないことがある。法的な部分は、専門の人間に任せた方がいい」
「ノーマンが対処するか」
「セノ氏とノーマンが、二十年かけて準備してきた。あとはその準備を使う段階だ」
「俺たちの役目は終わった、ということか」
ホームズが少し間を置いた。
「大きな役目は、終わった」
ロンが息を吐いた。
「疲れたな」
「そうか」
「お前は疲れないのか」
「疲れた」
「珍しい」
「人間だから疲れる」
「人間、というのは」
「なんでもない」
◇◇◇◇
外に出た。
空が、少し明るくなっていた。
雲が薄くなって、どこかに光の筋が見えた。
「晴れるかもしれない」とポワロが言った。
「珍しいな、この町では」とロンが言った。
「でも晴れるときはある」
「そうだな」
ライラが空を見上げた。
「父に報告したい」
「行こう」とロンが言った。
「霧の家に、全員で戻ってからでいいですか」
「なぜ」
「エーテル教授と、アーティも一緒に連れていきたい」
ロンが少し考えた。
「そうだな。全員で行く」
ホームズが空を見た。
光の筋が、少しずつ広がっている。
霧は出ていない。
晴れるかもしれない。
あるいは、また曇るかもしれない。
どちらでも構わなかった。
霧の家は、霧の中でも、晴れていても、変わらずそこにある。
それで十分だった。
◇◇◇◇
第十五話 了




