第十六話「霧の家に戻る日と、いつもの場所」
◇◇◇◇
霧の家に戻ったのは、夕方近くだった。
玄関を開けたとき、図書室から気配がした。
エーテル教授が顔を出した。
「戻ったか」
「戻った」とロンが答えた。
「記録は」
「無事だ。安全な場所に移した」
「そうか」
教授は図書室に引っ込みかけて、止まった。
「怪我はないか」
「ない」
「そうか」
「心配していたか」
「していた」
ロンが少し目を丸くした。
「珍しいな」
「たまに心配する」
「アーティと同じことを言うな」
教授が図書室に戻った。
扉が静かに閉まった。
ポワロが小声でロンに言った。
「教授は、ああいう人だ」
「わかっている。でも、たまに驚く」
「それでいい」
◇◇◇◇
ライラが奥の部屋を見た。
アーティとセノ氏がいるはずだ。
「行ってきます」
「行ってこい」とロンが言った。
ライラが奥の部屋へ向かった。
扉を軽くノックして、開けた。
暖炉に火が入っている。
部屋が暖かい。
セノ氏が寝台に座っていた。
アーティが椅子に座っていた。
二人とも、こちらを見た。
「戻りました」とライラが言った。
「うまくいったか」とセノ氏が訊いた。
「うまくいきました」
セノ氏が静かに息を吐いた。
「そうか」
「全部、無事です。記録も、書類も」
「ノーマンは」
「対処すると言っていました。任せていいと思います」
セノ氏が頷いた。
「そうだな。あれは、信頼できる」
「知っていたんですか、最初から」
「最初からではない。時間がかかった。でも、知ることができた」
◇◇◇◇
しばらくして、全員が部屋に集まった。
ホームズ、ロン、ポワロ、エーテル教授、ライラ、アーティ。
部屋が少し狭くなった。
セノ氏が全員を見た。
「ありがとうございます」
「礼はいい」とロンが言った。
「でも言わせてください」
「……言いたいなら止めない」
「ありがとうございます。みなさんが動いてくれなければ、ここまでこなかった」
「セノ氏が三十年かけて準備したからだ」とホームズが言った。
「準備だけでは動けません。動く人間が必要だった」
「それが俺たちだった、ということか」
「そうです」
ホームズが少し黙った。
「一つだけ訊いていいか」
「なんでしょう」
「俺たちが来なければ、どうするつもりだったか」
セノ氏が少し考えた。
「来ると思っていたので、考えたことがなかった」
「来なかった可能性は考えなかったのか」
「考えませんでした。霧の家がそういう場所だから」
「そういう場所」
「気になることを放っておけない人間が来る場所です。そういう人間が来れば、動く。必ず」
ホームズが少し間を置いた。
「随分と信じていたんだな」
「信じていました」
「根拠は」
「根拠はないですよ」
セノ氏が静かに笑った。
「勘です」
ロンが、思わず小さく笑った。
「勘か」
「勘は大事です」
「俺もそう思う」
◇◇◇◇
エーテル教授が口を開いた。
「セノ氏」
「はい」
「霧の家を、祖父上が建てた理由を、もう少し教えてもらえるか」
「記録を残す場所としてだ、という話は」
「聞いた。それだけではない気がした」
セノ氏が教授を見た。
「鋭いですね」
「においがした」
「においというのは」
「説明できない。でも、理由がもう一つある、と思った」
セノ氏が頷いた。
「あります」
「なんだ」
「祖父は、人を集めたかった」
「記録のためだけでなく」
「記録は、一人では守れない。時間が経てば、人は老いる。だから、次の人間が必要だ。そのために、そういう人間が自然に集まる場所を作った」
「霧の家が、人を呼ぶ場所だった」
「そうです。館の構造も、場所も、すべてそのために考えられている」
教授が静かに頷いた。
「だから俺たちが来た」
「だから来た」
「仕掛けられていたわけだ」
「仕掛け、というより」
セノ氏が少し考えた。
「招かれた、という方が近いかもしれません」
◇◇◇◇
「招かれた、か」とロンが繰り返した。
「そう思うと、気持ち悪くないか」
「どういう意味だ」とホームズが訊いた。
「最初から仕組まれていた場所に、俺たちは住み始めた、ということだろう。自分で選んだと思っていたのに、実は誘導されていたとしたら」
「誘導ではないでしょう」とセノ氏が言った。
「来るかどうかは、みなさんが決めたことです。来なかった人間も、きっといる」
「来なかった人間も」
「霧の家に来ても、住まなかった人間もいたはずです。でもみなさんは住んだ。それは、みなさんが決めたことだ」
ロンが少し考えた。
「俺がここに住み始めた理由は、特にない。気づいたら住んでいた」
「それが理由です」とセノ氏が言った。
「理由がないことが理由か」
「気になったから入った。居心地がよかったから留まった。それは立派な理由だと思います」
ロンは少し黙った。
「……まあ、そうだな」
「そうですよ」
◇◇◇◇
ライラが手を上げた。
「一つ、聞いてもいいですか」
「なんだ」とロンが言った。
「みなさんは、これからも霧の家に住むんですか」
部屋が静かになった。
全員が少し考えた。
「住む」とロンが答えた。
「変わらないのか」
「変わる理由がない。ここに来る前と、今で、何が変わった」
「いろいろ変わったと思いますが」
「変わったが、ここに住む理由は変わっていない。気になることがあれば調べる。それだけだ」
ポワロが静かに言った。
「次の案件が来たとき、また動けばいい」
「次の案件が来るかどうかはわからないが」とホームズが言った。
「来るよ」とポワロが言った。
「根拠は」
「霧の家がそういう場所だから」
ホームズは少し間を置いた。
「そうかもしれない」
エーテル教授が図書室の方を向いた。
「本を読む場所があればいい。それだけだ、私には」
「そういうことだ」とロンがライラに言った。
「みんな、変わらない。ここに住み続ける」
◇◇◇◇
ライラがセノ氏を見た。
「お父さんは」
「私は」
セノ氏が少し間を置いた。
「足が治ったら、また動き始めます。記録を元の所有者へ返す手続きが残っている。ノーマンと一緒に進める」
「また隠れなければならないことになるか」
「しばらくは、大丈夫だと思います。古い関係者が動けなくなった。時間ができた」
「じゃあ、一緒にいられる」
「しばらくは」
ライラが少し笑った。
「しばらくあれば十分です」
「そうか」
セノ氏が、ライラを見た。
「霧の家に、しばらく置いてもらえますか。足が治るまで」
全員がロンを見た。
「なぜ俺を見る」とロンが言った。
「仕切っているから」とポワロが答えた。
「仕切っているつもりはない」
「仕切っている」
ロンは少し間を置いた。
「好きにしろ」
「それは許可か」
「許可だ」
セノ氏が頷いた。
「ありがとうございます」
「礼はいらない。ただし」
「ただし」
「図書室の本を、無断で動かすな。教授が怒る」
エーテル教授が静かに頷いた。
「そこだけは守ってほしい」
セノ氏が小さく笑った。
「わかりました」
◇◇◇◇
夜になった。
居間に全員が集まった。
ポワロが紅茶を淹れた。
いつもより多い人数分だったが、カップは足りた。
霧の家には、なぜかいつも必要な分だけカップがある。
誰かが増やしたわけでもないのに、気づくと足りている。
ロンがいつか気になって確認しようとしたが、いつの間にか忘れた。
「今日は何があったか、整理したいんだが」とロンが言った。
「今日か」とホームズが言った。
「今日だけで相当あったな」
「倉庫に行って、老人に会って、記録を移した」
「セレン・ヴォーンは」
「ノーマンが対処すると言っていた。明日以降、連絡が来るだろう」
「セノ氏の足は」
「数日で動けるようになるはずだ、と本人が言っていた」
「本人の見立てを信じていいのか」
「几帳面な人間の見立ては、たいてい正確だ」
ロンが紅茶を一口飲んだ。
「古い関係者の老人は」
「ノーマンが引き渡す。詳細は明日聞く」
「一つ一つは解決した」
「一段落した、という方が正確だ。まだ動いていることがある」
「でも、今夜は休んでいいか」
ホームズが少し考えた。
「いい」
「珍しく素直だな」
「疲れたからだ」
「さっきも言っていたな」
「本当に疲れた」
◇◇◇◇
アーティが立ち上がった。
「アーティ」とロンが呼んだ。
「なんだ」
「今日、セノ氏と何を話していた」
アーティが少し止まった。
「いろいろだ」
「たとえば」
「昔の話をした。十五年前の話と、その前の話と」
「楽しかったか」
アーティが少し考えた。
「楽しい、というのとは違う」
「では」
「懐かしかった」
アーティは階段を上がっていった。
足音が遠くなって、消えた。
ロンがその足音を聞いていた。
「懐かしかった、か」
「アーティらしい言い方だ」とポワロが言った。
「そうだな」
ロンが居間を見回した。
セノ氏とライラが、暖炉の近くに並んで座っている。
エーテル教授が図書室の入口に寄りかかっている。
ホームズがテーブルの上の手帳を眺めている。
ポワロが紅茶のカップを両手で包んでいる。
窓の外は暗い。
霧は出ていない。
でも、出ていなくても、ここは霧の家だ。
それは変わらない。
◇◇◇◇
ホームズが手帳を閉じた。
「一つだけ、まだ気になることがある」
「なんだ」とロンが訊いた。
「霧の家を建てたセノ氏の祖父だ」
「どうした」
「どういう人物だったのか、記録に残っていない。名前すら残っていない」
「それが気になるか」
「気になる」
「調べるのか」
ホームズが少し間を置いた。
「調べる」
「誰も頼んでいないが」
「誰も頼んでいない」
「気になるから調べる」
「そうだ」
ロンが小さく笑った。
「変わらないな、お前は」
「変わる理由がない」
「そうか」
ロンが窓の外を見た。
暗い夜の空に、星が一つ出ていた。
雲の切れ目から、小さく光っている。
「また始まったな」
「始まった」
「面倒だな」
「そうだな」
「でも」
ロンがカップを持ち上げた。
「まあ、いい」
ホームズが手帳をポケットにしまった。
金と緑の瞳が、静かに窓の星を見た。
霧の家の夜が、深くなっていく。
テーブルの上の二本の鍵が、ランタンの光を受けて、鈍く光っている。
一段落した話の隣で、次の話が静かに息をしている。
それが霧の家だ。
終わらない場所で、終わらない話が続いていく。
◇◇◇◇
第十六話 了




