第十七話「セレン・ヴォーンが来た日」
◇◇◇◇
三日後の朝、ノーマンから連絡が来た。
手紙だった。
玄関の郵便受けに、封筒が入っていた。
ロンが取った。
差出人の名前を見て、居間へ持っていった。
「ノーマンからだ」
ホームズが受け取って、開けた。
読んだ。
一枚だけの、短い手紙だった。
「何と書いてある」とポワロが訊いた。
「セレン・ヴォーンが、霧の家へ来たいと言っている」
「来たいと言っている、というのは」
「会いに来ることを、ノーマンが先に知らせてきた」
「いつ来る」
「今日の昼だ」
ロンが腕を組んだ。
「今日か。急だな」
「急ぐ理由があるんだろう」
「会うのか」
「会う理由がある。断る理由はない」
ロンが少し考えた。
「セノ氏には話すか」
「話した方がいい。本人に関係する話だ」
「足の具合はどうだ」
「昨日より動けているようだった」
「確認してくる」
ロンが奥の部屋へ向かった。
◇◇◇◇
セノ氏は起きていた。
寝台の端に座って、本を読んでいた。
エーテル教授が貸した本らしい。
分厚い歴史書だ。
「ノーマンから連絡が来た」とロンが言った。
「セレンですか」
「そうだ。今日の昼に来る」
セノ氏が本を閉じた。
「そうですか」
「会えるか。足は」
「会えます。足はだいぶいい」
「無理をするな」
「無理をしているつもりはないですが」
「するつもりがなくても、する人間というのがいる」
セノ氏が少し笑った。
「私のことですか」
「心当たりがあるなら、そうだ」
「ありますね」
「だろう」
ロンが扉の前に立ったまま、少し間を置いた。
「セレン・ヴォーンに、何か伝えたいことがあるか。先に聞いておく」
「なぜ」
「俺たちも話すことになるだろう。そのとき、言ってはいけないことがあれば、知っておきたい」
セノ氏が頷いた。
「気を遣ってくれているんですね」
「気を遣っているというより、情報の整理だ」
「そうですか」
セノ氏は少し考えた。
「家族のことは、本人が話したいときに話させてください。こちらから触れない方がいい」
「わかった。他には」
「十二年前のことを、責めないでほしい」
「責めるつもりはない」
「みなさんがそうでも、セレンは気にするかもしれない。先に言っておきたかった」
ロンが頷いた。
「全員に伝える」
◇◇◇◇
昼になった。
三回、玄関が叩かれた。
ライラが言った。
「三回のノックは、うちの定番になってきましたね」
「そうだな」とポワロが笑った。
ロンが扉を開けた。
扉の前に、一人の人物が立っていた。
年のころは五十代か。
細身で、少し背が高い。
灰色がかった髪を短く整えている。
耳は丸く、左耳に小さな傷がある。
表情は固く、目が少し疲れている。
左手で、小さな鞄を持っていた。
左利きだ、とホームズは確認した。
「セレン・ヴォーンです」
声は静かだった。
落ち着いている、というより、落ち着かせようとしている声だった。
「ロンガーティーだ。入れ」
◇◇◇◇
居間に通した。
全員が揃っていた。
セノ氏も、杖をついて居間に出てきていた。
セレンがセノ氏を見た。
二人は少しの間、黙って見合った。
「久しぶりだ」とセノ氏が言った。
「久しぶりです」とセレンが答えた。
「足は」
「もうすぐ治ります」
「そうですか」
それだけだった。
それ以上は、今は言わないことにしたらしかった。
セレンがソファに座った。
ポワロが紅茶を淹れた。
セレンが受け取った。
「来てくれてありがとうございます」
「こちらこそ、会ってもらえて」
「会わない理由はなかった」
「そうですか」
セレンが鞄を膝の上に置いた。
「持ってきたものがあります」
「なんだ」とホームズが訊いた。
「記録です。私が持っていた、自分の分の記録」
◇◇◇◇
鞄から、封筒を取り出した。
厚みがある封筒だ。
中に書類が何枚も入っているらしかった。
「十二年前から今まで、私がやったことを、全部記録してある」
「自分で記録していたのか」とロンが言った。
「証拠として残すためです。もし何かがあったとき、全部わかるように」
「誰かを守るためか」
「自分を守るためです。まず」
セレンが少し間を置いた。
「それから、家族を守るためです」
「家族のことは」とロンが言いかけた。
セノ氏が、静かにロンを見た。
ロンが口をつぐんだ。
セレンがロンとセノ氏を交互に見た。
「話していいですよ」
「……先に言っておいたんだ」とロンが言った。
「そうですか」
セレンが少し表情を緩めた。
「この町の外に、子どもがいます。三人」
「今は無事か」とポワロが訊いた。
「無事です。古い関係者が動けなくなったので、脅しが来なくなりました」
「よかった」
「はい」
セレンが封筒をテーブルに置いた。
「これを、記録と一緒に保管してほしい。私がやったことも、なぜやったかも、全部含めて」
「消さなくていいのか」とホームズが訊いた。
「消しません。消せば、なかったことになる。でも、あったことはあったことです」
「記録として残す」
「残します。判断は、後の人間がすればいい。私は事実だけを残す」
ホームズが封筒を受け取った。
「預かる」
「ありがとうございます」
◇◇◇◇
「一つ、聞いていいか」とアーティが言った。
全員がアーティを見た。
アーティが自分から話すのを、セレンは知らない。
少し驚いた顔をした。
「どうぞ」
「十二年前に、情報を売ったとき、セノ氏に話したか」
セレンが静かに息を吐いた。
「話せなかった」
「なぜ」
「恥ずかしかったからです」
「恥ずかしかった」
「長い間、一緒に調べてきた人間です。それを、裏切った。話せるわけがない」
「セノ氏は知っていたか」
「後から知った、と聞いています」
「知って、どうした」
「責めなかった、と聞きました」
アーティがセノ氏を見た。
セノ氏が頷いた。
「責める気にはなれなかった。状況を知ってしまったら」
「でも、連絡を取らなかった」とセレンが言った。
「取りにくかった。あなたが、取ってほしくないだろうと思って」
「……そうかもしれません」
二人がしばらく黙った。
それが十二年分の沈黙に見えた、とポワロは後で思った。
◇◇◇◇
「これからどうするつもりだ」とロンがセレンに訊いた。
「記録の整理を手伝います。土地を返す手続きにも、私が知っていることが役に立つかもしれない」
「ノーマンと一緒に動くのか」
「そうなります」
「信頼できるか、ノーマンは」
「今は、できます」
「今は、というのは」
「昔は違いました。でも人間は変わる。変わったことを、私は見てきました」
「自分も変わったか」
セレンが少し考えた。
「変わったと思います。変わりたくて変わったわけではないが、変わっていた」
「それは」
「いいことか悪いことかは、わかりません」
ロンが頷いた。
「正直だな」
「嘘をつく理由がなくなりました」
「どういう意味だ」
「隠すものがなくなったからです。全部、記録に残した。全部、話した。隠せるものが残っていない」
「それは」とポワロが静かに言った。
「楽になったか」
セレンが少し間を置いた。
「楽に、なりました。少し」
◇◇◇◇
ライラが口を開いた。
「私の父と、また一緒に動けそうですか」
セレンがライラを見た。
「ライラさん、ですね。お父上に似ている」
「よく言われます」
「いいことだと思います」
セレンが少し考えた。
「一緒に動けるかどうかは、セノさん次第です。私は構いません。でも、セノさんが嫌なら」
「嫌ではない」とセノ氏が言った。
「本当ですか」
「本当だ。人手は多い方がいい。それだけだ」
セレンが、少し表情を変えた。
固かった顔が、わずかに緩んだ。
「そうですか」
「そうだ。ただし」
「ただし」
「十二年分の話は、いつか聞かせてほしい。急かすつもりはない。でも、いつか」
セレンが頷いた。
「いつか、話します」
「それでいい」
◇◇◇◇
帰り際、セレンが玄関で立ち止まった。
霧の家の壁を、一度だけ手で触れた。
「この館に来たのは、初めてです」
「そうか」とロンが言った。
「話には聞いていました。でも、来たことがなかった」
「どうだ」
セレンが少し考えた。
「古いですね」
「古い」
「でも、変な感じがしない」
「変な感じ、というのは」
「居心地が悪い感じ、というか。古い建物は、たまにそういう感じがするものですが」
「ここはないか」
「ないです。むしろ」
セレンが手を壁から離した。
「落ち着く感じがします」
ロンが少し目を細めた。
「そうか」
「なぜだろう」
「さあ。俺にもわからない。気づいたら居心地がよくなっていた」
「住みたくなる感じがする」
「なるな」
「なぜそういう造りなんでしょう」
「最初からそういう場所として建てられたらしい」
「そうなんですか」
「詳しくはまだ調べている」
セレンが振り返って、ホームズを見た。
「調べているのか」
「気になるから」とホームズが答えた。
セレンが少し笑った。
「そうですか」
「何かわかっているか。霧の家について」
セレンが少し考えた。
「一つだけ」
「なんだ」
「この館を建てた人物の名前を、私は知っています」
部屋が静かになった。
ホームズのオッドアイが、静かに細くなった。
「教えてもらえるか」
「はい。ただ、名前だけです。それ以上は知らない」
「名前だけでいい」
セレンが口を開いた。
名前を言った。
ホームズが聞いた。
ロンが聞いた。
ポワロが聞いた。
全員が聞いた。
「……その名前は」とホームズが静かに言った。
「記録の中のどこかに、出てきますか」
「出てきます。一度だけ。あの部屋の一番古い記録の、最初のページの隅に、小さく書いてありました」
ホームズが記憶を辿った。
あの記録の最初のページ。
読んだ。
几帳面な字で、びっしりと書かれていた。
隅に、小さく。
「見落としていた」
「目立たない場所に書いてあります。わざとそうしたんだと思います」
「なぜわざと目立たない場所に」
「さあ。でも」
セレンが玄関の扉に手をかけた。
「気になるなら、調べてみてください」
「調べる」
「そうだと思っていました」
セレンが扉を開けた。
外の光が、廊下に差し込んだ。
「また来てもいいですか」
「来い」とロンが言った。
「ありがとうございます」
セレンが出ていった。
扉が閉まった。
◇◇◇◇
全員が玄関に残った。
「記録を確認しなければならない」とホームズが言った。
「今すぐか」とロンが訊いた。
「今すぐだ」
「少し待て」
「なぜ」
「紅茶を飲んでからにしろ。お前はまだ今日の分を飲んでいない」
ホームズが少し間を置いた。
「飲む」
「飲め」
ポワロが台所へ向かった。
セノ氏が杖をついて、居間に戻っていった。
ライラがその隣を歩いた。
エーテル教授が図書室に戻った。
アーティが階段を上がった。
ロンとホームズが、玄関に残った。
「霧の家を建てた人物の名前」とロンが言った。
「そうだ」
「また一つ、始まったな」
「始まった」
「面倒だな」
「そうだな」
「でも」
ロンが廊下を歩き始めた。
「まあ、いい」
ホームズがその後に続いた。
金と緑の瞳が、静かに前を向いていた。
霧の家の廊下を、二人が歩いた。
台所からポワロの気配がした。
居間からセノ氏とライラの声が聞こえた。
図書室からエーテル教授のページをめくる音がした。
二階からアーティの足音が、静かに消えた。
霧の家の一日が、静かに続いていく。
終わらない場所で、終わらない話が、また一つ動き始めた。
◇◇◇◇
第十七話 了




