第十八話「記録の隅の名前と、図書室の夜」
◇◇◇◇
紅茶を飲んでから、ホームズは記録を取り出した。
あの部屋から持ち帰った、三十年分の書類だ。
テーブルの上に広げて、一番古いものを探した。
日付の一番古い記録。
三十四年前のものだ。
几帳面な字で、びっしりと書かれている。
ホームズがページを広げた。
ランタンを近くに引き寄せた。
端から端まで、ゆっくりと読んだ。
「あった」
隅だった。
右下の、本当に小さな隅。
他の字と同じ几帳面な字だが、ずっと小さく書かれている。
注意して見なければ、見落とす。
セレンが言った通りだった。
「なんと書いてある」とロンが訊いた。
「名前だ。それから、一行だけ文章がある」
「読めるか」
「読める」
ホームズが静かに読んだ。
「『この記録を始める者の名は、ヴェルナ・セノ。霧の家を建てた者と同じ名を持つ者として、記録を引き継ぐ』」
部屋が静かになった。
◇◇◇◇
「ヴェルナ・セノ」とロンが繰り返した。
「セノという名前だ」
「セノ氏の」
「祖父か、それ以前の人間だ。三十四年前に記録を始めた人物が、セノという名を持っていた」
「霧の家を建てた者と同じ名を持つ、と書いてある」
「建てた人物の名前も、セノだったということだ」
ロンが腕を組んだ。
「セノ氏に聞くべきか」
「聞く必要がある」
「今夜か」
「今夜でなくてもいい。ただ」
ホームズが記録の隅を見た。
「気になる」
「そうだろうな」
ロンが立ち上がった。
「聞いてくる」
「俺が行く」
「お前より俺の方が、話しやすい雰囲気を作れる」
ホームズが少し間を置いた。
「そうかもしれない」
「そうだ」
ロンが奥の部屋へ向かった。
◇◇◇◇
セノ氏はまだ起きていた。
ライラと話していたらしく、二人が顔を上げた。
「少し訊いていいか」とロンが言った。
「もちろんです」
「霧の家を建てた人物の名前を、セレンから聞いた」
セノ氏の表情が、少し動いた。
「そうですか」
「ヴェルナ・セノ、という名前だ。あなたと同じ名前だ」
「……はい」
「知っていたか」
「知っていました」
ロンが椅子を引いて、セノ氏の向かいに座った。
「教えてくれなかったのは」
「話す機会を探していました。でも」
セノ氏が少し苦笑した。
「みなさんの動きが早くて、追いつかなかった」
「俺たちが早いのか、あなたが遅いのか」
「両方だと思います」
◇◇◇◇
「霧の家を建てたのは、俺の曾祖父です」
セノ氏が静かに言った。
「曾祖父」とロンが繰り返した。
「ヴェルナ・セノ。あの区画に住んでいた人間の一人です。追い出される前に、川沿いの土地に館を建てた」
「記録を残すために」
「それだけではありません」
セノ氏が少し間を置いた。
「曾祖父には、子どもが三人いた。追い出されるとき、三人を別々の場所へ逃がした。自分は残って、館を守ることにした」
「別々に逃がした」
「一人がこの町に残った。それが私の祖父です。名前はヴェルナ・セノ、二世、とでも言うべき人物です」
「同じ名前を受け継いだ」
「曾祖父の意志を、名前と一緒に受け継いだ。記録を続けるために」
ライラが静かに言った。
「それがずっと続いてきたんですね。お父さんまで」
「そうです。祖父から父へ、父から私へ。名前は変わりましたが、記録は続いた」
「なぜ名前が変わったんですか」
「祖父の代で、ヴェルナという名前を使うことが危険になった時期があった。別の名前を使い始めて、そのままになった」
◇◇◇◇
「記録を始めた人物、ヴェルナ・セノという名前が、三十四年前の記録の隅に書いてある」とロンが言った。
「祖父が書きました。記録を引き継ぐとき、最初のページの隅に書いた。目立たないように、でも消えないように」
「なぜ目立たないように」
「当時はまだ、ノーマン家の監視が続いていました。記録が見つかった場合でも、誰が書いたかわかりにくいように、と祖父が考えた」
「慎重だな」
「慎重でなければ、ここまで続かなかった」
ロンが頷いた。
「もう一つ聞いていいか」
「なんでしょう」
「曾祖父が逃がした三人の子どものうち、この町に残ったのが祖父だと言っていた。他の二人はどうなった」
セノ氏が少し間を置いた。
「わかっていません」
「わからない」
「逃がしたきり、連絡が取れなくなった。どこへ行ったか、その後どうなったか、記録がない」
「探したことは」
「祖父が探しました。でも見つからなかった。私も、少し調べたことがある。でも手がかりがなかった」
ロンが静かに言った。
「それも気になるな」
「そうですね」
「ホームズに言えば、調べ始める」
「そうだと思います」
「言ってもいいか」
セノ氏が少し考えた。
「お任せします。ただ」
「ただ」
「急ぐ話ではありません。今は、記録を返す手続きの方が先です」
「順番をつけるか」
「つけた方がいい。ホームズさんは、気になることが多すぎると、全部同時に動き始める」
ロンが小さく笑った。
「よくわかっているな」
「見ていました、遠くから」
「そうだったな」
◇◇◇◇
ロンが居間に戻ったのは、しばらく後のことだ。
ホームズが記録を読み直していた。
ポワロが本を読んでいた。
「聞いてきた」とロンが言った。
「何が聞けた」とホームズが訊いた。
「霧の家を建てた人物は、セノ氏の曾祖父だ。名前はヴェルナ・セノ。記録を始めた人物の祖父にあたる」
「曾祖父から始まっていた」
「そうだ。追い出される前に、この館を建てた。記録を残す場所として」
「それから三十四年以上、記録が続いた」
「続いた。ただ」
ロンが椅子に座った。
「もう一つある」
「なんだ」
「曾祖父には子どもが三人いた。追い出されるとき、別々に逃がした。一人がセノ氏の祖父にあたる。他の二人の行方が、わからない」
ホームズが記録から顔を上げた。
「二人の行方が不明か」
「そうだ。セノ氏も祖父も探したが、見つからなかった」
ホームズが少し考えた。
「気になるか」とロンが訊いた。
「気になる」
「そうだろうと思った。でも、今は順番がある。記録を返す手続きが先だ。セノ氏がそう言っていた」
ホームズは少しの間、黙った。
「わかった」
「珍しく素直だな」
「順番の話は理解できる。後にする」
「後に、だ。忘れるなよ」
「忘れない」
「気になることは忘れないか」
「忘れたことがない」
ロンが鼻から息を抜いた。
「そうか。それは安心した」
◇◇◇◇
夜が更けた。
ポワロが本を閉じた。
「そろそろ休もうか」
「そうだな」とロンが言った。
ホームズが記録をまとめ始めた。
丁寧に折り畳んで、元の封筒に戻す。
「ホームズ」とポワロが言った。
「なんだ」
「今夜は休めるか」
「休む」
「眠れるか」
「眠れるかどうかはわからない。でも横になる」
「それでいい」
ロンが立ち上がって、ランタンを消そうとした。
「一つだけ」とホームズが言った。
「なんだ」
「曾祖父の逃がした二人の子どもが、別々の場所へ行った。その子孫が、今もどこかにいる可能性がある」
「可能性はあるな」
「この町にいる可能性もある」
ロンが手を止めた。
「どういう意味だ」
「逃がした先がどこかはわからない。でも、三十四年以上経っている。子孫がこの町に戻ってきていても、おかしくない」
「戻ってきているとしたら」
「俺たちが知らないだけで、どこかにいるかもしれない」
ロンが少し考えた。
「それは後の話だ。今夜は終わりにしろ」
「わかった」
ランタンが消えた。
居間が暗くなった。
◇◇◇◇
図書室に、まだ光があった。
エーテル教授が、夜遅くまで本を読んでいた。
いつものことだ。
ただ、今夜は少し違う本を読んでいた。
歴史書ではなく、この町の古い戸籍に関する資料だ。
薄い冊子で、字が細かい。
教授が静かにページをめくった。
「ヴェルナ」
小声で、呟いた。
もう一度ページをめくった。
「セノ」
また小声で。
教授がページを止めた。
何か、見つけたらしかった。
しばらく、その場所を読んでいた。
それから、冊子を閉じた。
閉じた冊子を、机の上に置いた。
すぐには立ち上がらなかった。
窓の外を見た。
夜の空に、星がいくつか出ていた。
「明日でいい」
教授が静かに言った。
「急ぐ話ではない」
そう言って、ランタンを消した。
図書室が暗くなった。
◇◇◇◇
霧の家が静かになった。
全員が部屋に戻った。
廊下に誰もいない。
居間に誰もいない。
暗い静寂が、館全体に広がっている。
でも、静かなだけで、空ではない。
それぞれの部屋に、それぞれの人間がいる。
眠っているか、眠れないでいるか、何かを考えているか。
どれであっても、霧の家の中にいる。
それが霧の家だった。
夜の間も、誰かがいる場所。
空っぽにならない場所。
曾祖父が、そういう場所として建てた。
三十四年以上経った今も、そうだった。
◇◇◇◇
二階の廊下を、アーティが歩いていた。
眠れないわけではない。
ただ、少し歩きたかった。
廊下の端まで歩いて、窓から外を見た。
星が出ている。
アーティは星を見た。
霧の家に来てから、十五年以上経つ。
来た理由は、今も正確にはわからない。
気づいたら来ていた。
気づいたら住んでいた。
セノ氏が言っていた。
気になることを放っておけない人間が来る場所だ、と。
アーティが気になっていたのは、何だったのか。
今も、はっきりとは言えない。
でも、来た。
住んだ。
そして今もいる。
それで十分だと、アーティは思っていた。
窓の外の星が、一つ、雲の後ろに隠れた。
アーティが廊下を戻り始めた。
自分の部屋に向かって、静かに歩いた。
◇◇◇◇
明け方近くに、霧が出た。
薄い霧が、館の周りを包んだ。
霧の家という名前が、今夜は正確だった。
誰もそれを見ていなかった。
全員が眠っていたか、眠ろうとしていたか、別のことを考えていたか。
ただ、霧は出た。
静かに、自然に、いつも通りに。
霧の家の朝が、来ようとしていた。
◇◇◇◇
第十八話 了




