第十九話「エーテル教授が見つけたもの」
◇◇◇◇
朝になった。
エーテル教授が図書室から出てきたのは、朝食の時間より少し早かった。
珍しいことだった。
教授はたいてい、食事の時間になっても図書室にいる。
声をかけると出てくるが、自分から出てくることは少ない。
居間にロンがいた。
紅茶を飲みながら、窓の外を見ていた。
「早いな」とロンが言った。
「用がある」と教授が答えた。
「なんだ」
「全員を呼んでくれ」
ロンが教授を見た。
「全員」
「全員だ。セノ氏も」
「何かあったか」
「あった」
「昨夜か」
「昨夜、見つけた」
ロンが立ち上がった。
「わかった。呼んでくる」
◇◇◇◇
全員が居間に集まった。
いつもより時間がかかった。
ライラがセノ氏の支度を手伝っていたからだ。
セノ氏が杖をついて居間に来たとき、全員が揃った。
アーティも来ていた。
珍しく、朝から下りてきていた。
エーテル教授がテーブルの上に、昨夜読んでいた冊子を置いた。
「昨夜、図書室でこれを読んでいた」
「この町の戸籍に関する資料だ」とホームズが言った。
「見たことがあるのか」とロンが訊いた。
「図書室にある資料は、一通り確認している」
「そうか」
「ただ、細かく読んだことはなかった。昨夜、教授が読んでいるのを見て、気になったが、先に休んだ」
「正解だ」とエーテル教授が言った。
「昨夜休まなければ、今朝使い物にならなかった」
「そうだな」
「だから先に教授が読んだ。結果として、見つけた」
「何を見つけたんだ」とロンが訊いた。
◇◇◇◇
教授が冊子を開いた。
該当のページを探して、全員に向けた。
「この町の、三十五年前の戸籍記録だ。この区画の、この名前を見てくれ」
全員がページを覗き込んだ。
細かい字で、名前と住所と、家族構成が記録されている。
「ヴェルナ・セノ」とホームズが静かに読んだ。
「そうだ」
「霧の家を建てた人物だ」
「見てほしいのは名前だけではない。家族構成を見ろ」
ホームズが読んだ。
「子が三人。長子、次子、三子」
「名前を読め」
「長子、ルカ・セノ。次子」
ホームズが止まった。
「次子、イン・セノ。三子、ヴェルト・セノ」
部屋が静かになった。
「イン」とロンが繰り返した。
「イン・セノ」
全員がアーティを見た。
アーティが、冊子を見ていた。
黒い耳が、静かに動いた。
◇◇◇◇
「アーティ」とホームズが静かに言った。
アーティが顔を上げた。
「なんだ」
「イン・セノという名前に、心当たりがあるか」
アーティは少し間を置いた。
「ある」
部屋が静かになった。
「誰だ」とロンが低い声で訊いた。
「俺の、祖母の名前だ」
誰も口を開かなかった。
アーティが続けた。
「祖母は、この町の外で生まれた、と聞いていた。もともとどこにいたかは、教えてもらえなかった。あまり話したがらなかった」
「イン・セノが、曾祖父の逃がした子どもの一人だとしたら」とホームズが言った。
「アーティの祖母が、ヴェルナ・セノの子どもだということになる」
「そうなる」
アーティが冊子を見た。
「次子、イン・セノ。これが祖母かどうかは、まだわからない」
「同じ名前だ」
「同じ名前の人間は、いないとは言えない」
「そうだが」
「でも」
アーティが静かに言った。
「祖母は、霧の家のことを知っていた」
◇◇◇◇
「知っていた」とロンが繰り返した。
「たまに話していた。川沿いに、古い館がある。そこには面白い人間が集まる、と」
「面白い人間が集まる」
「それだけだった。名前も場所も、教えてもらえなかった。ただ、そういう場所があると」
「それが霧の家だと思ったか」とポワロが訊いた。
「思っていなかった。ここに来るまでは」
「ここに来てから」
「来てから、祖母の話を思い出した。でも、確信はなかった」
「今は」
アーティが少し間を置いた。
「今も、確信はない。でも」
「でも」
「可能性が高いと思っている」
セノ氏が静かに口を開いた。
「アーティさん」
アーティがセノ氏を見た。
「祖母のお名前は、イン・セノ、でしたか」
「イン、という名前だった。セノかどうかは、知らなかった。祖母は名乗らなかった」
「名乗らなかった、というのは」
「人に名前を教えることを、嫌がっていた。理由は教えてくれなかった」
セノ氏が頷いた。
「追い出された側の人間は、名前を消されることを恐れていました。だから逆に、自分から名乗ることを避ける人間もいた」
「名前を消されることを、恐れて」
「そうです。記録から消された経験がある。だから、名前を軽々しく出したくなかった。そういう人間が、当時はいた」
◇◇◇◇
「確かめる方法はあるか」とホームズが訊いた。
「あります」とセノ氏が答えた。
「どうやって」
「私の祖父が、曾祖父の話を詳しく記録しています。子どもたちをどこへ逃がしたか、何らかの手がかりを残しているかもしれない」
「その記録はどこにある」
「私の書斎に、まだ残っているはずです」
「ライラが書斎から資料を持ってきていたが」
「全部ではありません。私が特に重要だと思うものを中心に持ってきた。祖父の個人的な記録は、まだ書斎にあります」
「取りに行く必要があるな」とロンが言った。
「はい。でも」
セノ氏が足を確認するように動かした。
「まだ一人では遠い」
「俺が行く」とロンが言った。
「ライラさんに、場所を教えてもらえれば」
「私も行きます」とライラが言った。
「場所を知っているなら、一人でいい」
「でも」
「でも、じゃない。お前は父上の側にいてくれ」
ライラが少し口をつぐんだ。
セノ氏が言った。
「行かせてやってください。書斎の中は、ライラの方が詳しい」
「……わかった。二人で行け」
◇◇◇◇
ロンとライラが出かけた後、居間が少し静かになった。
ホームズが冊子を読み直していた。
ポワロが紅茶を淹れた。
セノ氏が暖炉の近くに座った。
アーティは、窓の外を見ていた。
「アーティさん」とセノ氏が呼んだ。
アーティが振り返った。
「なんですか」
「祖母のことを、もう少し聞かせてもらえますか。もし話せるなら」
アーティが少し考えた。
「何を聞きたいですか」
「どんな人でしたか」
アーティが窓から離れて、椅子に座った。
「小柄な人だった。背が低くて、でも動きが速かった。老いても足が速かった」
「そうですか」
「字が綺麗だった」
セノ氏が、少し表情を動かした。
「几帳面な字でしたか」
「细い、几帳面な字だった。手紙を書くのが好きで、よく書いていた。でも出さなかった」
「出さなかった」
「書いて、しまっていた。誰に宛てた手紙かは、教えてもらえなかった」
セノ氏が静かに言った。
「書いても送れない相手がいたんだと思います」
「残してきた人間に、でしょうか」
「おそらく。父親に、あるいは兄弟に」
「兄弟が、ヴェルト・セノと」
「ルカ・セノです。長子です。三子のヴェルトも、どこかへ逃げた」
アーティが少し間を置いた。
「祖母は、兄か弟に手紙を書き続けていた」
「そうかもしれません」
「会えなかったんですね」
「会えなかったんだと思います」
◇◇◇◇
ホームズが口を開いた。
「ルカ・セノとヴェルト・セノの行方が、わかれば」
「三人が揃う」とポワロが静かに言った。
「揃う、というのは」
「長子、次子、三子。三人の子孫が今もどこかにいるとすれば、ヴェルナ・セノの話が、全部つながる」
「つながったとして、何が変わる」
「変わることと、変わらないことがある」とセノ氏が言った。
「どういう意味ですか」とポワロが訊いた。
「記録を返す手続き、土地の権利の話は、ルカやヴェルトの子孫が見つかっても見つからなくても、進めます。あの区画に住んでいた全員のために動いているので」
「でも、見つかった方がいい」
「見つかった方が、より正確に返せる。それだけです。ただ」
セノ氏がアーティを見た。
「アーティさんにとっては、祖母の話がつながることに、別の意味があるかもしれない」
アーティが少し間を置いた。
「別の意味」
「祖母がなぜ名前を言わなかったか。なぜ手紙を出さなかったか。なぜ霧の家のことを知っていたか。それがわかるかもしれない」
アーティが窓の外を見た。
「わかれば、と思う部分はある」
「そうですよね」
「でも」
「でも」
「わかっても、祖母はもういない」
セノ氏が静かに言った。
「それでも、知ることに意味があると思います」
「なぜ」
「消された記録を取り戻すために、何十年もかけてきた。消えた過去を、なかったことにしないために。それと同じことです」
アーティが、セノ氏を見た。
しばらく、黙っていた。
「そうかもしれない」
◇◇◇◇
昼前に、ロンとライラが戻ってきた。
ライラが鞄を抱えていた。
「あった」とライラが言った。
「祖父の記録か」とホームズが訊いた。
「はい。父の書斎の、一番奥の棚にありました」
「読んだか」
「少しだけ。帰りながら」
「何が書いてあった」
ライラがテーブルに鞄を置いた。
中から、古い手帳を取り出した。
表紙が傷んでいて、字が薄くなっている。
「祖父の手帳です。几帳面な字で、いろいろと書いてあります」
「イン・セノのことは」
「あります」
ライラが手帳を開いた。
付箋の代わりに、細い紙を挟んでいた。
帰り道で見つけたページだろう。
「ここです」
ホームズが受け取って、読んだ。
「読んでくれ」とロンが言った。
ホームズが声に出して読んだ。
「『曾祖父ヴェルナの次子、インは、町の東の方角へ逃げた。向かった先は、隣の県の港町だ。曾祖父から聞いた話では、インは港町で所帯を持ったという。その後の消息は不明』」
部屋が静かになった。
「港町」とアーティが静かに言った。
「心当たりがあるか」とホームズが訊いた。
「祖母は、港町の出身だと言っていた」
「隣の県の」
「そう聞いていた」
全員が少し黙った。
「ほぼ間違いない」とロンが言った。
「断定はできないが」とホームズが言った。
「でも」
「でも、可能性は高い」
アーティが手帳を見た。
「ヴェルト・セノについては、書いてあるか」
ライラがページをめくった。
「あります。少しだけ」
「読んでくれ」
ライラが読んだ。
「『三子のヴェルトは、北の方角へ逃げた。行き先は聞けなかった。ただ、ヴェルトは絵を描くことが好きだったと、曾祖父が言っていた。どこへ行っても、絵を描いていると思う』」
「北の方角へ、絵を描く人物」
「それだけか」
「それだけです」
「手がかりとしては、少ない」とホームズが言った。
「少ない」とロンが同意した。
「でも、ないよりいい」とポワロが言った。
「そうだな」
◇◇◇◇
「今日わかったことを、整理する」とホームズが言った。
「アーティの祖母は、高い可能性でイン・セノだ。ヴェルナ・セノの次子であり、アーティはヴェルナ・セノの曾孫にあたる可能性がある」
アーティが静かに聞いていた。
「ヴェルト・セノの行方は、まだわからない。北の方角、絵が好きという手がかりだけがある」
「三人のうち、一人がセノ氏の祖父、一人がアーティの祖母、一人がまだ不明だ」とロンが言った。
「そうなる」
「なんというか」
「なんだ」
「随分と、近いところにいたんだな、みんな」
ロンが、アーティとセノ氏を交互に見た。
「一方は霧の家に来て、一方は霧の家を守り続けた。繋がっていたわけだ」
セノ氏が静かに言った。
「曾祖父が、そうなるように作ったのかもしれません」
「霧の家が、人を引き寄せるように」
「子孫を引き寄せるように、も含めて」
「そこまで考えていたのか、曾祖父は」
「わかりません。でも」
セノ氏が霧の家の壁を見た。
「結果的に、そうなった」
「結果的に、か」
「霧の家がそういう場所だから」
ロンが小さく笑った。
「またその言葉か」
「何度でも正しい言葉というものがあります」
「そうかもしれないな」
◇◇◇◇
「ヴェルト・セノを探すか」とホームズが訊いた。
「探す」とロンが答えた。
「誰も頼んでいないが」
「頼んでいなくても、気になった」
「気になるから動くか」
「そうだ」
ホームズが手帳を閉じた。
「手がかりが少ない。北の方角、絵が好き、それだけだ。時間がかかるかもしれない」
「かかってもいい」
「急ぎではないか」
「急ぎではない。ただ」
ロンがアーティを見た。
「祖母の手紙が、残っているかもしれない。出さなかった手紙が」
アーティが少し間を置いた。
「残っている」
「どこに」
「俺が持っている」
「持っているのか」
「祖母が亡くなったとき、受け取った。読んでいない」
部屋が静かになった。
「読む気になったとき、読んでくれ」とロンが言った。
「手紙に、手がかりがあるかもしれないが、急かすつもりはない」
アーティが少し間を置いた。
それから、静かに言った。
「今夜、読む」
「そうか」
「読んだ方がいい気がした」
「そうか」
ロンはそれ以上何も言わなかった。
アーティも、それ以上は言わなかった。
◇◇◇◇
夕方になった。
ポワロが夕食の準備を始めた。
ライラが手伝った。
セノ氏が暖炉の前で、手帳を読んでいた。
エーテル教授が図書室に戻った。
ホームズが窓の外を見ていた。
ロンが居間の椅子で、目を閉じていた。
眠っているわけではないが、休んでいた。
アーティは、自分の部屋にいた。
部屋の中は静かだった。
机の引き出しを開けた。
一番奥に、古い封筒があった。
何年もそこにあった封筒だ。
封は閉じられたままだった。
アーティが封筒を取り出した。
手の中で、しばらく持っていた。
祖母の字が、表に書いてある。
宛名はなかった。
誰に書いたかわからない手紙が、何十年も、封がされたまま残っていた。
アーティが、封を開けた。
静かに、丁寧に。
中から、紙が出てきた。
何枚もある。
一枚目を広げた。
祖母の字が、ページいっぱいに書かれていた。
几帳面で、細い字だ。
アーティが、読み始めた。
◇◇◇◇
第十九話 了




