第二十話「祖母の手紙」
◇◇◇◇
手紙は、全部で七枚あった。
日付が書いてあった。
一番古いものは、五十年以上前だ。
一番新しいものは、アーティが子どもの頃の日付だった。
アーティは一枚目から順番に読んだ。
急がなかった。
一行ずつ、丁寧に読んだ。
祖母の字は細かったが、読みにくくはなかった。
几帳面に書かれた字は、何十年経っても、きちんと読めた。
一枚目を読み終えた。
しばらく、机の上に置いたまま、動かなかった。
それから、二枚目を手に取った。
◇◇◇◇
一枚目には、こう書かれていた。
『ルカへ。ヴェルトへ。
お父さんに言われた通り、港町に来た。
思ったより遠かった。
船のにおいがする町だ。
二人はどこにいるんだろう。
元気でいるといい。
私はここで、働き口を見つけた。
小さな商店だ。
毎日忙しい。
忙しい方が、余計なことを考えなくて済む。
霧の家のことを、たまに思い出す。
あの館は、まだあるだろうか。
お父さんは、まだあそこにいるだろうか。
手紙を書いても、送る場所がわからない。
だから書くだけにする。
元気でいてほしい。
イン』
◇◇◇◇
二枚目には、こう書かれていた。
『ルカへ。ヴェルトへ。
港町に来て、三年が経った。
所帯を持った。
相手は、この町で生まれた人間だ。
名前は言わない。
でも、いい人間だ。
子どもが生まれるかもしれない。
生まれたら、何と名付けようか、まだ決めていない。
お父さんの名前を使いたい気もする。
でも、目立ちたくない。
名前を消された人間が、また名前を使い始めると、どうなるか、怖い。
だから、別の名前にすると思う。
二人のことを、子どもに話してやりたい。
でも、どこにいるかわからないから、話しようがない。
どこかで元気にしていると信じる。
イン』
◇◇◇◇
三枚目を広げた。
日付が飛んでいた。
二枚目から十年後の日付だ。
『ルカへ。ヴェルトへ。
子どもが二人いる。
一人は男の子で、一人は女の子だ。
二人とも、元気だ。
男の子の方が、よく喋る。
女の子の方が、よく動く。
面白い子どもたちだ。
この町から、少し離れた場所に引っ越した。
港の喧噪から離れたくなった。
静かな場所を選んだ。
子どもたちに、霧の家の話をした。
川沿いに、面白い館がある、と。
詳しくは話せなかったけれど、そういう場所があると、知っていてほしかった。
なぜかはわからない。
でも、知っていてほしかった。
元気でいてほしい。
イン』
◇◇◇◇
アーティは三枚目を置いた。
しばらく、手を膝の上に置いたまま、動かなかった。
霧の家の話を、子どもたちに話した。
祖母が話した子どものうち、一人が、アーティの親だ。
だから、アーティも霧の家のことを知っていた。
そして霧の家に来た。
繋がっていた。
アーティが四枚目を手に取った。
◇◇◇◇
四枚目には、こう書かれていた。
『ルカへ。ヴェルトへ。
久しぶりに書く。
書けない時期があった。
いろいろあったから。
子どもたちは大きくなった。
男の子は、いつも外を走り回っている。
女の子は、本を読むのが好きだ。
二人とも、私に似ていない。
似ていない方が、生きやすいかもしれない、と思う。
ルカが、今どこにいるか、たまに考える。
長子だから、お父さんの一番近くにいたはずだ。
霧の家の周りにいたかもしれない。
あの館を、守っているかもしれない。
ヴェルトは、絵を描いているだろう。
北へ行った、とお父さんが言っていた。
北で、絵を描いて生きているといい。
私は、絵が描けない。
でも、字を書くことは好きだ。
届かない手紙を、書き続けている。
おかしいかもしれない。
でも、やめられない。
イン』
◇◇◇◇
「ルカが、霧の家の周りにいたかもしれない」
アーティが小声で繰り返した。
長子のルカ・セノ。
セノ氏の祖父が、記録を始めた。
祖父の名前は、ヴェルナ・セノだった。
でも。
アーティが五枚目を広げる前に、少し止まった。
考えた。
ヴェルナ・セノという名前を、祖父の代から引き継いだ。
追い出された後で、名前を受け継いだ。
もし、ルカが霧の家の近くに残ったなら。
曾祖父の名前を、引き継いだなら。
ルカ・セノが、ヴェルナ・セノを名乗ったなら。
つまり。
アーティが、静かに息を吐いた。
明日、セノ氏に聞く必要がある。
◇◇◇◇
五枚目を広げた。
『ルカへ。ヴェルトへ。
孫が生まれた。
男の子だ。
変わった子だ。
生まれたときから、目が落ち着いている。
赤ちゃんなのに、ものを考えているような目をしている。
名前は、まだ決まっていない。
でも、この子はいつか、霧の家に行くと思う。
理由は言えない。
ただ、そう思う。
目を見ていると、そう思う。
この子に、届かない手紙のことを、話すかどうか、まだ決めていない。
話した方がいいのか、話さない方がいいのか、わからない。
でも、いつか話す気がする。
ルカ、ヴェルト、元気でいるといい。
孫の顔を、見せてやれないのが、残念だ。
イン』
◇◇◇◇
アーティは五枚目を置いた。
「変わった子だ。この子はいつか、霧の家に行くと思う」
祖母が書いた言葉だった。
アーティのことだ。
間違いなく、アーティのことだ。
目を見ていると、そう思う、と書いてあった。
セノ氏が言っていた言葉を、アーティは思い出した。
霧の家に住み続ける者は、そういう目をしている。
祖母も、同じことを感じていた。
孫の目を見て、感じていた。
アーティが六枚目を手に取った。
手が、わずかに動いた。
普段、手が動くことはない。
アーティ自身も、気づかなかったかもしれない。
でも、動いた。
◇◇◇◇
六枚目には、こう書かれていた。
『ルカへ。ヴェルトへ。
孫が、もう歩いている。
早い子だ。
どこへでも行こうとする。
目に入ったものに、全部近づこうとする。
昨日、川のそばに連れていった。
孫が川を見て、何かを考えているような顔をした。
川が、何か話しかけているみたいだった。
そのとき、お父さんのことを思い出した。
川沿いに館を建てた人間のことを。
この子は、いつか、あの川のそばに行く。
あの館に、行く。
そんな気がした。
気だけだ。
でも、そう思った。
ルカへ。ヴェルトへ。
もし二人の子孫と、私の孫が、どこかで会うことがあれば、よろしくと伝えてほしい。
どこかで読んでくれているといい。
いつか会えると、信じている。
イン』
◇◇◇◇
アーティは六枚目を、ゆっくりと置いた。
『もし二人の子孫と、私の孫が、どこかで会うことがあれば、よろしくと伝えてほしい』
セノ氏と、アーティは、会った。
霧の家で。
曾祖父が建てた場所で。
祖母が夢見ていた通りに。
アーティが天井を見た。
しばらく、動かなかった。
それから、七枚目を手に取った。
最後の手紙だった。
日付は、アーティが子どもの頃のものだ。
◇◇◇◇
『ルカへ。ヴェルトへ。
これが最後の手紙になるかもしれない。
体が弱くなってきた。
字を書くのが、少し難しくなった。
孫は、もう大きくなった。
変わらず、変わった子だ。
どこへ行っても、静かに、でも確かに、そこにいる。
そういう人間に育った。
霧の家のことを、孫に話した。
川沿いに、古い館がある。
面白い人間が集まる場所だ、と。
それだけ話した。
孫が、どんな顔をするか、見ていた。
何も言わなかった。
でも、目が動いた。
それでいい、と思った。
ルカ、ヴェルト、私はもうすぐ届かない場所へ行く。
でも、孫がいる。
孫が、いつか、あの場所に行く。
そして二人の子孫に会う。
私の代わりに、よろしく、と言ってくれる。
そう信じている。
長い間、届かない手紙を書き続けた。
おかしな人間だったかもしれない。
でも、書かずにはいられなかった。
届かなくても、書くことに意味があると思っていた。
霧の家の記録と、同じかもしれない。
消えても、消えても、書き続けた人間がいた。
私も、届かなくても、書き続けた。
人間というのは、そういうものかもしれない。
最後に一つだけ。
孫へ。
あの館に行ったら、居心地がいいと思う。
それでいい。
それだけでいい。
イン・セノ』
◇◇◇◇
アーティは最後の手紙を、長い間持っていた。
置けなかったわけではない。
ただ、もう少し、手の中にあってほしかった。
居心地がいいと思う。
それでいい。
それだけでいい。
霧の家に来た最初の日を、アーティは覚えていない。
いつ来たか、なぜ来たか、正確には覚えていない。
ただ、来た。
居心地がよかった。
だから居ついた。
それだけだと思っていた。
でも、祖母が知っていた。
孫が来ることを、信じていた。
アーティが手紙を、丁寧に折り畳んだ。
封筒に戻した。
机の引き出しに、しまった。
立ち上がった。
部屋の扉を開けた。
廊下に出た。
◇◇◇◇
階段を下りた。
居間に全員がいた。
夕食が終わって、それぞれがゆったりとしていた。
ポワロが紅茶を飲んでいた。
ロンが窓の外を見ていた。
ホームズが手帳を読んでいた。
ライラがセノ氏と話していた。
エーテル教授が本を持ったまま、暖炉の前に座っていた。
アーティが居間に入ったとき、何人かが顔を上げた。
「アーティ」とロンが言った。
「なんだ」
「手紙は」
「読んだ」
「どうだった」
アーティは少し間を置いた。
「長い手紙だった」
「そうか」
「届かなかった手紙だ。でも」
アーティがセノ氏を見た。
セノ氏がアーティを見た。
「届いた、と思う」
セノ氏が静かに目を細めた。
「そうですね」
「一つだけ、明日聞かせてほしいことがある」
「なんでしょう」
「セノ氏の祖父が、ヴェルナ・セノという名前を引き継いだ、という話だ。その前の名前を、知っているか」
セノ氏が少し考えた。
「知っています。祖父の元の名前は、ルカ、と言いました」
部屋が静かになった。
「ルカ・セノ」とアーティが静かに言った。
「はい」
「長子の」
「そうです。なぜ」
アーティが少し間を置いた。
「祖母の手紙に、ルカへ、と書いてあった」
セノ氏の表情が、静かに変わった。
固かったものが、少しずつ溶けるように、変わった。
「……そうですか」
「届かなかった手紙が、七枚ある。全部、ルカへ、から始まっている」
「祖父に、届いていなかった」
「届いていなかった。でも」
アーティが言った。
「今夜、届いた」
◇◇◇◇
部屋が静かになった。
ランタンの光が、全員の顔を照らしていた。
ロンが窓から視線を外した。
ポワロが紅茶のカップを置いた。
ホームズが手帳を閉じた。
ライラが少し目を赤くした。
エーテル教授が本を膝の上に置いた。
セノ氏が、静かに息を吐いた。
「祖父は、妹に会えなかった」
「会えなかった」
「でも」
セノ氏が、アーティを見た。
「曾孫が、来てくれた」
アーティが少し間を置いた。
「来た」
「霧の家に」
「来た」
「それが、曾祖父の望んでいたことだったのかもしれない」
「そうかもしれない」
二人が、しばらく、黙って向き合っていた。
◇◇◇◇
「ヴェルトの話は、また別の日にしよう」とロンが静かに言った。
「そうだな」とホームズが答えた。
「今夜はここまでだ」
「わかった」
「アーティ」
「なんだ」
「よく読んだ」
アーティが少し間を置いた。
「読まないといけない気がした」
「そうだな」
「読んでよかった」
「そうか」
「珍しいことを言うな、と思っているか」
「思っていない」とロンが言った。
「正直に言うな」
「お前が正直に言ったから、こちらも正直に言った」
アーティが、ほんのわずかに、表情を動かした。
笑ったとは言えない。
でも、何かが緩んだ。
それを見ていた人間が、何人かいた。
誰も、指摘しなかった。
◇◇◇◇
夜が深くなった。
一人ずつ、部屋に戻っていった。
最後に居間に残ったのは、ホームズだった。
いつも通りだった。
ランタンの前に座って、何かを考えていた。
七枚の手紙。
届かなかった言葉が、五十年以上後に届いた。
記録を残すことの意味を、セノ氏が言っていた。
消えても、消えても、書き続けた人間がいた。
届かなくても、書き続けた人間がいた。
それが今夜、繋がった。
ホームズが窓の外を見た。
霧が出ていた。
薄い霧が、川の方から流れてきて、館の周りを包んでいる。
霧の家という名前が、今夜もよく似合っていた。
ホームズが目を閉じた。
金と緑の瞳が、静かに暗くなった。
霧の家の夜が、深く、静かに、続いていく。
終わらない場所で、終わらない話が、今夜も息をしている。
◇◇◇◇
第二十話 了




