第八話「手帳の中身と、動いている人物」
◇◇◇◇
夜になってから、ホームズが手帳を読み直した。
居間のランタンを近くに引き寄せて、ページを一枚ずつめくる。
ロンが向かいの椅子に座って、腕を組んでいた。
ポワロがソファに腰を下ろして、紅茶を飲んでいた。
ライラはまだいた。
帰ろうとしたのを、ロンが引き止めた。
理由は言わなかった。
ただ、今日はここにいろ、と言った。
ライラは少し驚いた顔をしてから、頷いた。
「読み上げてくれないか」とロンがホームズに言った。
「全部か」
「概要でいい」
ホームズは手帳を置いた。
少し考えてから、口を開いた。
「ライラのお父上、セノ氏は、この町で起きた土地の不正取引を調べていた」
「不正取引」
「二十年以上前に消えた区画の土地だ。図面から消される前、あの土地には複数の建物があった。住人がいた」
「住人が追い出されたということか」とポワロが言った。
「追い出された、というより、消された」
「消された、というのは」
「記録から、だ。住んでいた事実が、書類の上から丁寧に削られている。税の記録、戸籍の記録、土地の登記、全部だ」
ライラが静かに息を吐いた。
「父はそれを調べていたんですね」
「二十年以上かけて」
◇◇◇◇
「なぜそんなことをする必要がある」とロンが言った。
「土地が欲しかったからだ」
「住人を追い出して、記録まで消して」
「そこまでするほど、価値のある土地だったということだ」
「何が価値を生む」
ホームズは手帳の中ほどのページを開いた。
「川だ」
「川」
「あの区画は川に接している。今は使われていないが、かつてはその川を使った輸送路があった。この町の物流の要だったらしい。今でも権利を持っていれば、相当な利益を生む」
ロンが眉を寄せた。
「それで住人を追い出したのか」
「追い出しただけじゃない」
ホームズが手帳を持ち上げた。
「住人の中に、反発した者がいた。記録を消させまいとした者がいた。その人物たちが、あの部屋に記録を残し続けた。三十年以上」
「それが、四人の人物か」
「最初の四人が、次の四人に引き継いだ。そしてセノ氏が、その記録を受け継いだ」
ポワロが静かに言った。
「セノさんは、最後の引き継ぎ手だったんだね」
「そうなる」
◇◇◇◇
「動いている人物というのは」とロンが訊いた。
ホームズが手帳の最後のページを開いた。
「手帳の末尾に、名前が一つだけ書いてある」
「誰だ」
「ガリス・ノーマン」
部屋が静かになった。
ライラの指が、膝の上でわずかに動いた。
「知っているか」とホームズがライラに訊いた。
「名前だけは」
「どういう人物だ」
「この町で、古くから商売をしている家の当主です。父が何度か、その名前を口にしていました。気をつけろ、という文脈で」
「手帳にも同じことが書いてある」
ホームズが該当のページを示した。
几帳面な字で、こう書かれていた。
『ガリス・ノーマン。現在も土地の権利を巡って動いている。記録の存在に気づいている可能性がある。注意が必要』
「気づいている可能性がある」とロンが繰り返した。
「書かれた時点では可能性だった」
「今は」
「セノ氏が隠れている。それが答えだ」
◇◇◇◇
ライラが口を開いた。
「父が逃げるほどの人物なんですね」
「そう読める」
「でも、記録を残した。鍵をここへ持ってきた」
「逃げながらも、調べ続けることを諦めていない」
ライラは少しの間、テーブルの上の鍵を見た。
二本の鍵が、煤棚からテーブルに移されていた。
「父らしい」
小さな声だったが、全員に届いた。
ロンが腕を組み直した。
「ガリス・ノーマンについて、もっと調べる必要がある」
「そうだな」とホームズが言った。
「どこから手をつける」
「手帳に手がかりがある。セノ氏が調べた範囲で、いくつかの場所と人物が記録されている」
「具体的には」
「この町の古い公文書の保管場所と、ノーマン家と取引のあった商人の名前と」
ホームズはページをめくった。
「それからもう一つ」
「なんだ」
「ノーマン家が所有している建物の中に、古い倉庫がある。川沿いの、あの区画に隣接した場所だ」
「あの区画の隣」
「セノ氏は、その倉庫に何かが保管されていると考えていた」
「何が」
「土地の元の所有者に関する書類だ。追い出した住人たちの、本来の記録が」
◇◇◇◇
「取り戻すのか、その記録を」とロンが言った。
「セノ氏の目的はそれだったと思う」とホームズが答えた。
「俺たちの目的は」
「セノ氏を見つけること、だ。今は」
ロンが頷いた。
「順番を整理しよう。まずセノ氏の居場所を探す。それからノーマンについて調べる。倉庫の件はその後だ」
「妥当な順序だ」
「俺もそう思う」とポワロが言った。
ライラが両手をしっかりと組んだ。
「私も手伝います」
「当然だ」とロンが言った。
「でも、一人で動くな」
ライラが少し驚いた顔をした。
「危険かもしれない、と言っていましたよね」
「言った」
「なぜ手伝わせてくれるんですか」
ロンは少し間を置いた。
「お前のお父上の話だからだ」
それだけ言った。
ライラは何か言おうとして、やめた。
代わりに、小さく頷いた。
◇◇◇◇
エーテル教授が図書室から出てきたのは、その直後だった。
手に、古い本を一冊持っている。
「ノーマン家のことなら、これに少し載っている」
全員が教授を見た。
「図書室にあったのか」とホームズが言った。
「あった。この館の蔵書は古いものが多い。この町の歴史書の類も何冊かある」
「なぜ今まで言わなかった」
「聞かれなかった」
ロンが額に手を当てた。
「今後は聞かれなくても言ってくれ」
「善処する」
教授はテーブルに本を置いた。
分厚い、革表紙の本だ。
背表紙に、この町の名前が刻まれている。
ホームズが本を引き寄せて、目次を確認した。
該当のページを探して、開いた。
「ノーマン家。三代にわたってこの町で商業を営む旧家。主な事業は物流と土地の管理」
「物流」とポワロが繰り返した。
「川を使った輸送路と、深く関わっている」
「つながった」
「最初からつながっていた。ただ、俺たちが知らなかっただけだ」
ホームズがページを読み続けた。
しばらく黙って読んだ。
それから、手が止まった。
「どうした」とロンが言った。
ホームズがページをロンに向けた。
そこに、一枚の写真が貼られていた。
古い写真だ。
色が褪せていて、人物の顔が少し判然としない。
写真の下に、短い説明文がある。
『ノーマン家三代目当主、ガリス・ノーマン。現当主』
写真の人物が、誰かに似ていた。
全員がその写真を見た。
全員が、同じことに気づいた。
「ライラ」とポワロが静かに言った。
ライラが身を乗り出した。
写真を見た。
一瞬、息が止まった。
「……知っている顔です」
「誰だ」
ライラはゆっくりと顔を上げた。
「三日前に、私に封筒を渡した人物です」
◇◇◇◇
静寂が落ちた。
ガリス・ノーマンが、ライラに封筒を渡した。
調べられている側の人物が、調べている側の娘に、自ら手を差し伸べた。
「罠か」とロンが言った。
「かもしれない」とホームズが答えた。
「俺たちをここへ引き込むための」
「そうとも読める」
「だとしたら、全部最初から知られていたということか」
「あるいは」
ホームズは本を閉じた。
「こちらに調べさせることが、ノーマンにとっても都合がよかった、ということかもしれない」
「なぜノーマンが俺たちに調べさせたい」
「わからない」
「ホームズ」
「まだわからない。でも」
ホームズは立ち上がった。
窓の方へ歩いた。
外は暗い。
川沿いの方角に、この町の灯りが点在している。
「ノーマンが自分で動かずに、俺たちを使った理由がある。それがわかれば、この話の構造が見えてくる」
「構造」
「誰が何を望んでいるか、ということだ」
ロンが立ち上がった。
ポワロも立ち上がった。
ライラはソファに座ったまま、膝の上の手を見ていた。
「ライラ」
ホームズが窓から振り返った。
「お父上から、ノーマンについて何か聞いていたか。人柄でも、癖でも、何でもいい」
ライラは少し考えた。
「一つだけ」
「なんだ」
「父が言っていました。ノーマンは、失いたくないものがある人間だ、と」
「失いたくないもの」
「それが何なのかは、教えてもらえませんでした。でも父は、そこが弱点だとも言っていました」
ホームズのオッドアイが、静かに光った。
金と緑が、夜の窓を背に、ゆっくりと細くなる。
「失いたくないもの」
彼は静かに繰り返した。
「それを探そう」
◇◇◇◇
アーティが階段を下りてきたのは、それから少し後のことだ。
珍しいことだった。
夜に自分から下りてくることは、ほとんどない。
全員が黙ってアーティを見た。
アーティはテーブルの前に立って、写真の貼られたページを見た。
それから、静かに口を開いた。
「ノーマンに会ったことがある」
「いつだ」とホームズが訊いた。
「十五年前だ」
「字が綺麗な人物と話していた頃か」
「その少し後だ」
「どんな人物だった」
アーティは少し間を置いた。
黒い耳が、静かに動く。
「怖い人物だと思った」
全員が黙った。
アーティが怖いと言うのを、誰も聞いたことがなかった。
「なぜ」とロンが訊いた。
「笑っていたからだ」
「笑っていたから、怖い」
「何があっても笑っていた。怒らなかった。焦らなかった。ただ笑っていた」
アーティはページから目を離した。
「そういう人間は、たいてい、全部わかった上で動いている」
部屋が静かになった。
ランタンの光が、揺れた。
◇◇◇◇
第八話 了




