第七話「来訪者の名前と、彼女が知っていたこと」
◇◇◇◇
翌朝、エーテル教授の予言は当たった。
正確には予言ではなく、来そうな顔をしていた、という観察だったが、結果は同じだった。
昨日と同じ時間帯に、昨日と同じ三回のノックがあった。
今日はロンが一番近くにいたので、ロンが出た。
扉の前に、くすんだ茶色のコートの人物が立っていた。
昨日より少し顔色が悪い。
眠れなかったのかもしれない。
「来た」とロンが言った。
「来ました」と彼女が言った。
「上がれ」
「ありがとうございます」
ロンは扉を大きく開けて、脇に退いた。
彼女が中に入った。
コートを脱ごうとしたので、ロンが受け取った。
彼女が軽く目を丸くした。
「どうぞ」
「……ありがとうございます」
◇◇◇◇
居間に全員が揃った。
ポワロが紅茶を淹れた。
エーテル教授が図書室から来ていた。
アーティは今日も階段の上にいた。
気配だけが、うっすらと上から漂っている。
彼女はソファに座って、紅茶のカップを両手で包んだ。
昨日と同じ仕草だ。
「名前を聞いていなかった」とホームズが言った。
「あ」
彼女は少し驚いた顔をした。
それから小さく笑った。
「そうですね。昨日は聞かれなかったから、言いそびれました」
「今日は聞く」
「はい」
彼女はカップを膝の上に置いた。
少し背筋を伸ばした。
「ライラ・セノと言います」
「ライラ」とポワロが繰り返した。
「はい」
「封筒を渡した人物と、どういう関係だ」とホームズが続けた。
ライラの表情が、少し変わった。
変わった、というより、何かが浮かんできた。
悲しみとも心配とも、うまく名前のつけられない何かだ。
「……父だと思います」
◇◇◇◇
「思います、というのは」
「確認できていないので」
ロンが腕を組んだ。
「会っていないのか」
「八日前から、いなくなっています」
部屋が静かになった。
全員が同じことを考えていた。
八日前。
一番新しい記録の日付と、一致する。
「記録に書いてあった、姿を消した一人」とポワロが静かに言った。
「記録、というのは」とライラが訊いた。
ホームズがテーブルの上の紙を示した。
昨日持ち帰った記録だ。
「これを見てほしい」
ライラが紙を受け取った。
読み始めた。
最初の数枚は静かに読んでいた。
途中から、手が少し震え始めた。
一番新しい記録を読んだとき、彼女は一度目を閉じた。
長く息を吐いた。
それから目を開けた。
「父です」
「確認できるか」
「この字です。子どもの頃から見ていました」
ライラが紙をテーブルに戻した。
手を膝の上に置いて、指を組んだ。
「父がここに鍵を持ってきたんですね」
「そうなる」
「私に、探してほしかったんだと思います」
「なぜ」
「三日前に封筒を渡した人物が、街で私に声をかけた、と言いましたよね」
「言っていた」
「その人物が渡してきたとき、一言だけ言ったんです」
ライラは少し間を置いた。
「『お父さんがよろしくと言っていた』と」
◇◇◇◇
「つまり」とロンが言った。
「お父さんは生きている」とライラが答えた。
「消えたのではなく、隠れている」
「そう考えています」
「なぜ隠れる必要がある」
ライラはカップを持ち直した。
少し考えてから、答えた。
「それが、私にもわからないんです。でも」
「でも」
「父は昔から、調べてはいけないことを調べる人でした」
ポワロが静かに相づちを打った。
「それで誰かに追われているとか」
「可能性はあると思っています。根拠はないんですけど」
「勘か」とロンが言った。
「そうかもしれません」
ロンは少し黙った。
それから、
「勘は大事だ」
と言った。
ポワロが小さく笑った。
ライラも、少しだけ笑った。
◇◇◇◇
ホームズが口を開いた。
「お父上は、この町で何を調べていた」
「詳しくは教えてもらえませんでした。でも」
ライラはコートのポケットに手を入れた。
小さな手帳を取り出した。
「これを、ずっと前に預かっていました。何かあったら開けなさい、と」
「何かあった」
「なくなったので、開けました」
手帳を開いた。
中には父親の字で、細かく何かが書かれている。
ホームズに差し出した。
ホームズが受け取って、読んだ。
一ページ目。
二ページ目。
三ページ目。
読む速度が、途中から落ちた。
「ホームズ」とロンが声をかけた。
ホームズは答えなかった。
最後のページまで読んで、手帳を閉じた。
「借りてもいいか」
「構いません」
ホームズは手帳をコートのポケットに入れた。
それからライラを見た。
「お父上が調べていたのは、この町の土地に関することだ」
「土地」
「正確には、今から二十年以上前に消えた区画と、その土地に関わった複数の人物についてだ」
ライラが静かに息を飲んだ。
「知っていたか」とホームズが訊いた。
「少しだけ。父がよく、あの区画のことを話していたので」
「どんなことを」
「本当はあそこに、大切なものが埋まっているはずだ、と」
◇◇◇◇
「大切なもの」とポワロが繰り返した。
「父の言葉をそのまま言うと」
ライラは少し考えた。
「この町の記憶が、あそこに眠っている、と」
「記憶」
「比喩なのか本当のことなのか、子どもの私にはわかりませんでした。でも今は」
彼女は昨日持ってきた地図を見た。
テーブルの上に広げたままになっている。
×印が、静かにそこにある。
「本当のことだったんじゃないかと思っています」
エーテル教授が図書室の入口から言った。
「記録がそれだ」
全員が教授を見た。
「あの部屋にあった記録が、この町の記憶だ。誰かが消そうとして、消せなかったもの。残そうとして、残し続けたもの」
「消そうとしたのは誰だ」とロンが言った。
「手帳に書いてある」とホームズが答えた。
「誰だ」
ホームズはポケットに入れた手帳を押さえた。
「この町で、今も動いている人物だ」
◇◇◇◇
静寂が落ちた。
今も動いている。
それはつまり、今もこの町のどこかにいる、ということだ。
「危ないのか」とロンが訊いた。
「ライラのお父上が隠れているなら、危ないと判断したからだろう」
「俺たちも危ないか」
「可能性はある」
「やっかいだな」
「やっかいだ」
ロンは天井を仰いだ。
それから、ライラを見た。
「お前はどうする」
ライラが顔を上げた。
「どうする、というのは」
「ここに関わり続けるかどうか、ということだ。お父上を探したいのはわかる。でも危険かもしれない」
ライラは少しの間、膝の上の指を見た。
それから顔を上げた。
「探します」
迷いのない声だった。
「父が三十年かけて調べてきたことです。私も知りたい」
ロンが小さく頷いた。
「そうか」
それだけ言った。
ポワロが微笑んだ。
ホームズが手帳を取り出して、もう一度開いた。
◇◇◇◇
階段の上で、アーティが聞いていた。
ライラ・セノ。
その名前を、彼は知っていた。
父親の名前も、知っていた。
字が綺麗な人物が、十五年前にアーティに話した内容の中に、娘がいる、と書いてあった。
いつか会うかもしれない。
もし会ったら、よろしく頼む、と。
アーティは手すりに指をかけた。
黒い耳が、静かに動く。
よろしく頼む。
その言葉の意味を、アーティはまだ測りかねていた。
ただ、一つだけわかることがある。
この話は、まだ始まったばかりだ。
◇◇◇◇
第七話 了




