第六話「館の奥の音と、アーティが話したこと」
◇◇◇◇
音は続いていた。
規則的で、低く、一定のリズムだ。
叩く、というより、何かが振動しているような音だ。
壁を通して伝わってくる。
ホームズが音の方角へ歩いた。
廊下に出た。
左右を確認して、奥へ進む。
ロンが後に続いた。
ポワロも続いた。
廊下は暗い。
昼間でも光が入りにくい構造で、夜はなおさらだ。
ホームズがランタンを持ってきていた。
行きと帰りを繰り返す黄色い光が、三人の足元を照らした。
「どこから聞こえる」とロンが小声で言った。
「地下だ」とホームズが答えた。
「地下」
「この館に地下があることは知っていた。入口を探していた」
「知っていたなら言えよ」
「言う機会がなかった」
「作れ」
◇◇◇◇
廊下の突き当たりに、扉があった。
古い木の扉で、取っ手が鉄製だ。
鍵はかかっていない。
押すと、軋んだ音を立てて開いた。
向こうに、下り階段があった。
石の段が、暗い下へ続いている。
音は、そこから聞こえていた。
三人が顔を見合わせた。
「行くのか」とロンが言った。
「行く」とホームズが言った。
「また」
「また、だ」
「慣れてきたな、俺も」
ロンが先に階段を下り始めた。
ホームズが続いた。
ポワロが最後尾に入った。
◇◇◇◇
地下は、思ったより広かった。
天井が低く、空気が冷たい。
石の床で、壁も石だ。
川が近いせいか、どこかしら湿気がある。
音は、部屋の中央から聞こえていた。
中央に、古い機械がある。
正確には機械と呼んでいいのかわからないが、金属と木を組み合わせた、見たことのない構造物だ。
高さは腰ほど、横幅は両腕を広げたくらい。
表面に細い管が走っていて、その管のどこかが振動して、音を出している。
一定のリズムで。
規則的に。
「何だこれは」とロンが言った。
「わからない」とホームズが言った。
「今回はそう答えると思っていた」
ホームズが機械に近づいた。
ランタンを近づけて、表面を確認する。
管の構造を目で追う。
底の部分を覗き込む。
「動いている」
「見ればわかる」
「自力で動いている。動力源が見当たらない」
ロンが機械の周りを一周した。
「止める方法は」
「探している」
「急いで」
「なぜ」
「なんとなく」
ポワロが機械の横面を確認しながら言った。
「止めない方がいいかもしれない」
二人が振り返った。
「音を聞け、と書いてあった。止めるとは書いていなかった」
ホームズが少し考えた。
「そうだな」
「つまり聞けばいい」
「何を聞くんだ」とロンが言った。
三人は黙って、音を聞いた。
規則的な振動音。
一定のリズム。
変化はない。
しばらく聞いていた。
「……何も聞こえない」とロンが言った。
「聞こえているのに聞こえない、ということかもしれない」とポワロが言った。
「わかりにくいな」
「そういうことってある」
◇◇◇◇
「それは暗号だ」
上から声がした。
三人が振り返った。
階段の入口に、アーティが立っていた。
黒い耳が、地下の空気の中でわずかに動いている。
いつからそこにいたのか、今回も誰も気づかなかった。
「暗号」とホームズが繰り返した。
「音のリズムが、文字に対応している」
アーティが階段を下りてきた。
機械の前に立って、音を聞いた。
少しの間、目を閉じた。
「短い、長い、短い短い」
「……モールス符号に近いものか」とポワロが言った。
「近いが、違う。この町で独自に使われていた方式だ」
「知っているのか」とホームズが訊いた。
「知っている」
「どこで覚えた」
アーティは少しの間黙った。
目を開けて、機械を見た。
「教わった」
◇◇◇◇
誰も次の言葉を急かさなかった。
アーティが自分から話すのは珍しい。
急かすと止まることを、全員が知っていた。
ロンが壁に寄りかかった。
ポワロが静かに立った。
ホームズは機械から視線を外さなかった。
アーティが口を開いた。
「十五年前の話だ」
「聞く」とホームズが言った。
「この町に、四人の人間がいた。名前は知らない。知ろうとしなかった。ただ、その中の一人と、少しの間、話をした」
「どんな人物だった」
「字が綺麗な人だった」
ホームズの手が、僅かに止まった。
「記録の中で、一番字が綺麗な筆跡の人物か」
「そうだと思う」
「名前は」
「教えてもらえなかった。教えたくないのではなく、教えない方がいいと言っていた」
「なぜ」
「知っている人間が多いほど、面倒なことになる、と」
◇◇◇◇
アーティが続けた。
「その人物は、この館のことを知っていた。地下のこの機械のことも。この音の意味も」
「何を教えてもらった」
「音の読み方だ。それから、この機械がいつ動き始めるかを」
「いつ動き始める」
「この館に、然るべき者が来たとき」
部屋が静かになった。
機械の音だけが続いている。
「俺たちが来たから動き始めた、ということか」とロンが言った。
「おそらく」
「どういう仕組みだ」
「わからない。教えてもらえなかった」
「何のために動く」
「メッセージを伝えるために」
ホームズが機械に向き直った。
「今、何と言っている」
アーティは音を聞いた。
目を閉じて、リズムを数えた。
長く、静かに聞いた。
それから目を開けた。
「『遅くなったが、よく来た。記録を読んだなら、一つだけ教える。消えた者は、死んでいない』」
◇◇◇◇
沈黙が落ちた。
長い沈黙だった。
最初に口を開いたのはロンだった。
「消えた者、というのは」
「八日前の記録に書いてあった人物だ」とホームズが答えた。
「死んでいない」
「そう言っている」
「じゃあどこにいる」
アーティがもう一度、音を聞いた。
しばらく待った。
機械のリズムが、少し変わった。
アーティが聞いた。
訳した。
「『それを調べるのが、然るべき者の仕事だ』」
ロンが盛大にため息をついた。
「仕事を押し付けられた」
「依頼ではないが」とホームズが言った。
「どう違うんだ」
「誰も頼んでいない」
「結果は同じだろうが」
ポワロが二人の間で、静かに微笑んだ。
「まあ、でも」
彼は機械を見た。
「三十年以上前から誰かが記録をつけて、機械を用意して、鍵を残して。それだけのことをして、俺たちに辿り着いてほしかった。そう思うと」
「思うと」
「断れないね」
ロンが天井を仰いだ。
アーティが机に手をついて、静かに立っていた。
ホームズのオッドアイが、機械の振動に合わせるように、ゆっくりと瞬いた。
◇◇◇◇
機械がまた鳴った。
アーティが聞いた。
「最後のメッセージだ」
「なんと言っている」
アーティは少しの間、音を聞いた。
それから静かに、訳した。
「『彼女に、まだ諦めていないと伝えてくれ』」
全員が黙った。
彼女。
一人しか思い当たらない。
昨日、この家を訪ねてきた、くすんだ茶色のコートを着た、小柄な来訪者。
古びた封筒を胸に抱えていた、あの人物。
「……あの子は」とロンが言った。
「知り合いだったんだ」とポワロが静かに言った。
機械の音が、ゆっくりと小さくなっていった。
一定のリズムが、だんだん遠くなって。
やがて、止まった。
地下に、静寂が落ちた。
◇◇◇◇
四人は地下から戻った。
廊下を歩いて、居間に戻った。
誰も喋らなかった。
喋らなくても、今は十分だった。
エーテル教授が図書室から顔を出した。
「終わったのか」
「一段落した」とポワロが答えた。
「音は」
「止まった」
「そうか」
教授は少し考えた。
「明日、あの子が来るかもしれない」
「なぜそう思う」とホームズが訊いた。
「来そうな顔をしていた」
それだけ言って、教授は図書室に戻った。
ロンが椅子に座った。
ポワロがまた紅茶を淹れ始めた。
ホームズが煤棚の二本の鍵を見た。
アーティは階段を上がりかけて、一度だけ振り返った。
「ホームズ」
「なんだ」
「字が綺麗な人物は、お前に似ていた」
ホームズは少しの間、アーティを見た。
「どういう意味だ」
「気になるから調べる、と言っていた。理由はそれだけだ、と」
アーティは階段を上がっていった。
足音が遠くなって、消えた。
ホームズは長い間、鍵を見ていた。
金と緑の瞳が、暗い部屋の中で静かに光っている。
誰かが、三十年前からここへ向けて、何かを送り続けていた。
それが何なのかは、まだ全部はわからない。
ただ。
輪郭だけが、少しずつ、見え始めていた。
◇◇◇◇
第六話 了




