第五話「二十二年前の記録と、霧の家が隠していたもの」
◇◇◇◇
紙を、全員で読んだ。
声に出して読んだのはホームズだ。
几帳面な細い字を、ゆっくりと、一行ずつ。
記録はこう始まっていた。
『二十二年前、秋。霧の家と呼ばれる洋館にて、四人の人物が集まった。目的は、この町で長年放置されてきた案件の調査である。彼らは自らを探偵とは名乗らなかった。ただ、気になるから調べる、と言った』
ホームズが読むのを止めた。
部屋が静かになった。
「続けて」とロンが言った。
ホームズは紙に視線を戻した。
『彼らは三ヶ月をかけて調査を行い、いくつかの結論に達した。しかし結論を公にすることは叶わなかった。理由は記さない。記録だけを残す。鍵とともに、然るべき者が来る日まで』
そこで文章は終わっていた。
◇◇◇◇
「然るべき者」
ロンが繰り返した。
「俺たちのことを言っているのか」
「二十二年前の人物が、俺たちを指定したとは考えにくい」
ホームズが紙を折り畳みながら言う。
「ではなぜ霧の家に鍵を」
「霧の家に、という指定ではないかもしれない」
「どういうことだ」
「鍵を持つ者へ、と書かれていた。封筒に」
ロンが昨日の場面を思い出した。
確かに、そう書かれていた。
『霧の家の、鍵を持つ者へ』。
「つまり、最初から霧の家が目的地だった。鍵を持っているかどうかは、関係なかった」
「鍵はここにあったんだから」とポワロが静かに言った。
「そうだ。台所の棚の裏に。最初からここにあった鍵を、誰かが取り出して、俺たちの家に持ち込んだ」
「順序が逆だ」とエーテル教授が言った。
「逆だな」
全員が少し黙った。
「鍵が先に霧の家へ来て、俺たちがそれを見つけて、ここへ来た」
「鍵が俺たちを呼んだ」とロンが言った。
「呼ばれた俺たちが、鍵の元の場所へ戻した」
「……気持ち悪い話だな」
「筋は通っている」
「筋が通っているから余計に気持ち悪い」
◇◇◇◇
ポワロが他の紙を手に取った。
箱の中の記録を、一枚ずつ確認していく。
日付の順に並べると、最も古いものは三十四年前、最も新しいものは八日前。
二十年以上にわたって、記録がつけられていた。
「書いた人物が複数いる」
ポワロが言った。
「字体が違う。少なくとも三種類、いや、四種類の筆跡がある」
「四人だ」とホームズが言った。
「二十二年前の記録にあった、四人と同じかもしれない」
「あるいは引き継がれた可能性もある」
「引き継ぎ」
ロンが眉を寄せた。
「この部屋を、誰かから誰かへ、引き継いだということか」
「記録を見る限り、そう読める」
ポワロが一枚の紙を取り出した。
「ここに、引き継ぎの記録がある。十二年前の日付で。旧い四人から、新しい四人へ、この部屋と記録と鍵を渡す、と」
「渡した側の名前は」
「ない」
「受け取った側は」
「ない」
ロンが頭を掻いた。
「徹底して名前を残していない」
「残せなかったのかもしれない」とエーテル教授が言った。
「なぜ」
「記録を公にできなかった、と書いてあった。名前を残すことも、同じ理由で避けたんだろう」
◇◇◇◇
「八日前の記録を読もう」
ホームズが一番新しい紙を広げた。
他の紙と同じ几帳面な字だが、少し乱れている。
急いで書いたのか、あるいは書いた人物の状態が普通でなかったのか。
『記録する。我々四人のうち、一人が姿を消した。理由はわからない。ただ、最後に残した言葉だけを記す。「鍵を持っていける。でも扉は開けないでほしい」。我々は残り三人になった。この記録を誰かに引き継ぐべきか、まだ判断がつかない。しかし時間がないかもしれない。霧の家へ鍵を戻す。あとは、然るべき者に任せる』
ホームズが読み終えた。
「一人が消えた」とロンが言った。
「八日前に」
「消えたというのは、死んだのか、逃げたのか」
「どちらとも読める」
「姿を消した、という書き方だからな」
ポワロが静かに言った。
「でも一つ、確かなことがある」
「なんだ」
「その人物は、扉を開けてほしくなかった」
全員の視線が、テーブルの上の木の箱に向いた。
箱は開いている。
中の紙は今、テーブルの上に広げられている。
「俺たちは開けた」とロンが言った。
「開けた」とホームズが答えた。
「まずかったか」
「わからない」
「……」
「ただ」
ホームズが箱の内側を見た。
紙の下に、何かが残っていた。
小さな、折り畳まれた紙切れが一枚。
他の記録とは別に、箱の底に貼り付けてあったものが、剥がれかけている。
取り出した。
広げた。
一行だけ書かれていた。
『開けたなら、次は音を聞け』
◇◇◇◇
「音」
ロンが周囲を見回した。
聞こえるのは、遠い水の音だけだ。
川の流れる、低く一定の音。
「この音か」
「違う」
ホームズが首を振った。
「この音はずっとある。次は、という書き方をしている。つまり、これから聞こえる音だ」
「いつ」
「わからない」
「どこで」
「わからない」
「何の音だ」
「わ」
「わからないって言うな」とロンが先回りした。
ホームズは口を閉じた。
それから一拍置いて、
「まだわからない」
と言い直した。
ロンは額に手を当てた。
ポワロが小さく笑った。
◇◇◇◇
帰り道を歩きながら、エーテル教授が口を開いた。
「扉を開けるな、と言った人物が消えた」
「そうだな」とホームズが答えた。
「それは警告だったのかもしれない」
「自分が消える前に言い残した、ということか」
「あるいは」
エーテル教授は少し間を置いた。
「消えることがわかっていたから、言い残した」
川沿いの道が、風で鳴った。
細い石畳の道を、五人は並んで歩いている。
「消えることがわかっていた、とはどういう意味だ」とポワロが訊いた。
「わからない」
「教授まで言い始めたか」とロンが言った。
「本当のことしか言えないんだ、私も」
ロンはため息をついた。
今日何度目かのため息だった。
◇◇◇◇
霧の家に戻ったのは、夕方近くだった。
雨は結局降らなかった。
空は相変わらず低く重いままだったが、五人が玄関を入るまで、空はそれ以上何もしなかった。
居間のテーブルに、記録の紙を並べた。
箱ごと持ち帰ってきた。
鍵も二本、煤棚の上に戻した。
ホームズが椅子に座って、紙を順番に読み返し始めた。
ポワロが紅茶を淹れた。
ロンが窓枠に腰かけて、外を見た。
エーテル教授が図書室へ戻った。
アーティは、階段を上がりかけて、一度だけ振り返った。
「ホームズ」
「なんだ」
「消えた一人の筆跡は、四種類のうちのどれだと思う」
ホームズが紙から顔を上げた。
アーティを見た。
「なぜそれを訊く」
「気になった」
「珍しいな」
「たまには気になる」
ホームズは紙に視線を戻した。
しばらく考えた。
「一番字が綺麗なものだと思う。乱れがない。感情が表に出ない人物の字だ」
「そうか」
アーティは頷いた。
それから階段を上がっていった。
その背中を見ながら、ロンが窓枠から声をかけた。
「アーティ、何か知ってるんじゃないのか」
返事はなかった。
足音だけが、階段を上がって、遠くなって、消えた。
◇◇◇◇
夜になった。
ホームズは記録を読み続けていた。
紅茶が三杯、空になった。
窓の外で、風が鳴った。
そのとき。
音がした。
遠く、低く、規則的な音だ。
何かを叩くような、あるいは何かが鳴っているような。
ホームズが顔を上げた。
ロンが窓の外を見た。
ポワロの手が止まった。
音は続いていた。
一定のリズムで、繰り返される。
「これか」
ロンが静かに言った。
「次は音を聞け」
ホームズが立ち上がった。
金と緑の瞳が、音の方角を捉えた。
館の、奥の方から聞こえる。
霧の家の中から。
◇◇◇◇
第五話 了




