第三話「地図の×印と、行きたくない者たちの遠征」
◇◇◇◇
地図を広げたのは、翌朝のことだ。
居間のテーブルの上に、ホームズが慎重に紙を伸ばした。
四隅を文鎮代わりの本で押さえて、全員を呼んだ。
エーテル教授だけは呼ばれる前に来ていた。
どこで聞きつけたのか、図書室から静かに現れて、誰より先に椅子に座っていた。
「この町の古地図だ」
ホームズが言った。
「現在の地図と照合した。×印のある区画は、今から四十年ほど前に区画整理で消えている」
「消えた区画に、鍵穴がある」
ポワロが地図を覗き込みながら言う。
「建物ごと取り壊されたということ?」
「図面上はそうなっている」
「図面上は、というのは」
ホームズは×印をひとさし指でそっと押さえた。
「現地を見ていないからだ」
◇◇◇◇
「行くのか」
ロンが言った。
腕を組んで、地図を真上から眺めている。
表情は平坦だが、耳が微妙に後ろへ傾いている。
乗り気でないときの癖だ。
「行く必要がある」
「必要というか、義務はないだろう」
「義務ではない。必然だ」
「同じだろうが」
ポワロが苦笑しながら地図から顔を上げた。
「距離はどのくらい?」
「歩いて一時間ほどだ。町の東端、川沿いの古い区画だ」
「天気は」
全員が窓を見た。
空は低く、雲が厚い。
いつ雨が落ちてきてもおかしくない色をしていた。
「最悪だな」とロンが言った。
「雨具を用意しよう」とポワロが言った。
「濡れても構わない」とホームズが言った。
「俺は構う」
ロンが即座に返した。
◇◇◇◇
エーテル教授は地図をしばらく眺めてから、静かに口を開いた。
「この区画」
「知っているか」
「知っているというほどではないが」
彼は短い耳を一度動かした。
「においを覚えている」
全員がエーテル教授を見た。
彼はこういうことを、たまに言う。
理由を訊いても、たいてい明確な答えは返ってこない。
だが外れたためしがない。
「どんなにおいだ」
ホームズが静かに訊いた。
「古い木と、水と」
エーテル教授は少し考えた。
「鍵のにおいだ」
「鍵のにおいというのは」
「鍵のにおいだ」
それ以上は出てこなかった。
◇◇◇◇
出発したのは昼前だ。
結局、全員で行くことになった。
アーティだけは声をかけても返事がなく、諦めて四人で玄関を出たところで、すでに外に立っていた。
「……いつから」
「少し前から」
「なぜ先に出ている」
「待っていた」
ロンが何か言おうとして、やめた。
アーティはすでに歩き始めていた。
方向は、地図の×印と一致していた。
「地図を見たのか」とポワロが小声で言った。
「見ていないと思う」とホームズが小声で返した。
「じゃあなぜ」
「わからない」
二人は顔を見合わせて、それからアーティの後を追った。
◇◇◇◇
川沿いの道は、思ったより細かった。
石畳が古く、所々が割れている。
両側に低い塀が続いていて、その向こうに背の高い草が茂っている。
人の気配がない。
町の中心部からそれほど離れていないのに、ここだけ時間の流れが違う気がした。
「静かだな」とロンが言った。
誰も答えなかった。
答えるまでもなく、静かだったからだ。
ポワロが足元の石畳を見ながら歩いていた。
「この石、かなり古いね。この町の他の場所とは石の種類が違う」
「気づいていた」とホームズが言った。
「いつから」
「ここに足を踏み入れた瞬間から」
「教えてくれればよかったのに」
「君も気づいていた」
ポワロは少し口をつぐんだ。
それから小さく笑った。
「そうだね」
◇◇◇◇
×印の場所に着いたのは、歩き始めて四十分ほど後のことだ。
そこには、建物があった。
取り壊されたはずの、建物が。
低い石造りの構造物で、正確には建物と呼んでいいのかどうか怪しい。
半ば土に埋まっていて、入口らしき開口部が一つ、草に覆われながらも黒く口を開けている。
扉はない。
扉があった痕跡だけが、石の縁に残っている。
「図面には載っていなかった」
ホームズが静かに言う。
「取り壊されたのではなく、地図から消されたんだ」
「意図的に」とポワロが言った。
「気持ち悪いな」とロンが言った。
アーティは何も言わなかった。
ただ、開口部をじっと見ていた。
◇◇◇◇
中は暗かった。
ホームズが先頭に立った。
ロンが渋々その後に続いた。
ポワロとエーテル教授が並んで入った。
アーティが最後尾に収まった。
石の壁。
土の床。
天井は低く、立っていると頭が近い。
においがした。
古い木と、水と。
エーテル教授が言っていたにおいだ、とホームズは思った。
そしてもう一つ。
昨日、台所の足跡から嗅いだにおい。
植物性の、腐敗が始まった、複数の成分が混じったにおい。
「ここだ」
ホームズが足を止めた。
◇◇◇◇
壁の一面に、石が一枚だけ、他と微妙に色が違った。
近づいて見ると、その石の中央に、小さな穴があった。
鍵穴だ。
形は古く、今どき見かけないタイプだが、昨日の錆びた鍵と見比べた記憶と照合すれば、合う。
おそらく、合う。
「鍵を持ってきていないのか」
ロンが言った。
「持ってきた」
ホームズがコートのポケットから錆びた鍵を取り出した。
「最初から持っていたのか」
「当然だ」
「だったら最初からそう言え」
「言う必要がなかった」
ロンがまた何か言おうとして、ポワロが先に口を開いた。
「ホームズ、開ける前に確認しておきたいんだけど」
「なんだ」
「開けた後、何が起きるか、考えてある?」
ホームズは少しの間黙った。
「考えていない」
「正直だね」
「わからないことを、わかったふりはしない」
ポワロは小さく息をついた。
それから、静かに微笑んだ。
「わかった。開けよう」
◇◇◇◇
ホームズが鍵を穴に差し込んだ。
錆びているせいで、少し抵抗があった。
それでも確かに、鍵は穴に収まった。
回した。
石の壁の向こうで、何かが動く音がした。
重く、低く、長い音だ。
ずっと動いていなかった何かが、久しぶりに軋みながら動く音だ。
壁が、動いた。
正確には、石の一枚が内側へ傾いて、向こう側に細い通路が現れた。
暗い。
奥は見えない。
全員が黙って、その暗闇を見た。
「行くのか」とロンが言った。
「行く」とホームズが言った。
「俺はここで待つ」
「来い」
「なんで」
「怖いんだろう」
「怖くない」
「耳が言っている」
ロンの耳が、ぴたりと伏せた。
「……俺の耳は喋らない」
「さっき喋った」
◇◇◇◇
全員で通路に入った。
アーティだけが、入口で一瞬だけ立ち止まった。
振り返って、外の光を見た。
空はまだ雲が厚い。
雨は、まだ降っていない。
彼は薄く目を細めた。
この場所のことを、彼はずっと前から知っていた。
知っていて、来なかった。
来る理由がなかった。
今は、ある。
アーティは通路に入った。
石の扉が、ゆっくりと閉じた。
◇◇◇◇
第三話 了




