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Requiem  作者: みなと劉


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3/22

第三話「地図の×印と、行きたくない者たちの遠征」


◇◇◇◇


 地図を広げたのは、翌朝のことだ。

 居間のテーブルの上に、ホームズが慎重に紙を伸ばした。

 四隅を文鎮代わりの本で押さえて、全員を呼んだ。

 エーテル教授だけは呼ばれる前に来ていた。

 どこで聞きつけたのか、図書室から静かに現れて、誰より先に椅子に座っていた。

「この町の古地図だ」

 ホームズが言った。

「現在の地図と照合した。×印のある区画は、今から四十年ほど前に区画整理で消えている」

「消えた区画に、鍵穴がある」

 ポワロが地図を覗き込みながら言う。

「建物ごと取り壊されたということ?」

「図面上はそうなっている」

「図面上は、というのは」

 ホームズは×印をひとさし指でそっと押さえた。

「現地を見ていないからだ」


◇◇◇◇


「行くのか」

 ロンが言った。

 腕を組んで、地図を真上から眺めている。

 表情は平坦だが、耳が微妙に後ろへ傾いている。

 乗り気でないときの癖だ。

「行く必要がある」

「必要というか、義務はないだろう」

「義務ではない。必然だ」

「同じだろうが」

 ポワロが苦笑しながら地図から顔を上げた。

「距離はどのくらい?」

「歩いて一時間ほどだ。町の東端、川沿いの古い区画だ」

「天気は」

 全員が窓を見た。

 空は低く、雲が厚い。

 いつ雨が落ちてきてもおかしくない色をしていた。

「最悪だな」とロンが言った。

「雨具を用意しよう」とポワロが言った。

「濡れても構わない」とホームズが言った。

「俺は構う」

 ロンが即座に返した。


◇◇◇◇


 エーテル教授は地図をしばらく眺めてから、静かに口を開いた。

「この区画」

「知っているか」

「知っているというほどではないが」

 彼は短い耳を一度動かした。

「においを覚えている」

 全員がエーテル教授を見た。

 彼はこういうことを、たまに言う。

 理由を訊いても、たいてい明確な答えは返ってこない。

 だが外れたためしがない。

「どんなにおいだ」

 ホームズが静かに訊いた。

「古い木と、水と」

 エーテル教授は少し考えた。

「鍵のにおいだ」

「鍵のにおいというのは」

「鍵のにおいだ」

 それ以上は出てこなかった。


◇◇◇◇


 出発したのは昼前だ。

 結局、全員で行くことになった。

 アーティだけは声をかけても返事がなく、諦めて四人で玄関を出たところで、すでに外に立っていた。

「……いつから」

「少し前から」

「なぜ先に出ている」

「待っていた」

 ロンが何か言おうとして、やめた。

 アーティはすでに歩き始めていた。

 方向は、地図の×印と一致していた。

「地図を見たのか」とポワロが小声で言った。

「見ていないと思う」とホームズが小声で返した。

「じゃあなぜ」

「わからない」

 二人は顔を見合わせて、それからアーティの後を追った。


◇◇◇◇


 川沿いの道は、思ったより細かった。

 石畳が古く、所々が割れている。

 両側に低い塀が続いていて、その向こうに背の高い草が茂っている。

 人の気配がない。

 町の中心部からそれほど離れていないのに、ここだけ時間の流れが違う気がした。

「静かだな」とロンが言った。

 誰も答えなかった。

 答えるまでもなく、静かだったからだ。

 ポワロが足元の石畳を見ながら歩いていた。

「この石、かなり古いね。この町の他の場所とは石の種類が違う」

「気づいていた」とホームズが言った。

「いつから」

「ここに足を踏み入れた瞬間から」

「教えてくれればよかったのに」

「君も気づいていた」

 ポワロは少し口をつぐんだ。

 それから小さく笑った。

「そうだね」


◇◇◇◇


×印の場所に着いたのは、歩き始めて四十分ほど後のことだ。

 そこには、建物があった。

 取り壊されたはずの、建物が。

 低い石造りの構造物で、正確には建物と呼んでいいのかどうか怪しい。

 半ば土に埋まっていて、入口らしき開口部が一つ、草に覆われながらも黒く口を開けている。

 扉はない。

 扉があった痕跡だけが、石の縁に残っている。

「図面には載っていなかった」

 ホームズが静かに言う。

「取り壊されたのではなく、地図から消されたんだ」

「意図的に」とポワロが言った。

「気持ち悪いな」とロンが言った。

 アーティは何も言わなかった。

 ただ、開口部をじっと見ていた。


◇◇◇◇


 中は暗かった。

 ホームズが先頭に立った。

 ロンが渋々その後に続いた。

 ポワロとエーテル教授が並んで入った。

 アーティが最後尾に収まった。

 石の壁。

 土の床。

 天井は低く、立っていると頭が近い。

 においがした。

 古い木と、水と。

 エーテル教授が言っていたにおいだ、とホームズは思った。

 そしてもう一つ。

 昨日、台所の足跡から嗅いだにおい。

 植物性の、腐敗が始まった、複数の成分が混じったにおい。

「ここだ」

 ホームズが足を止めた。


◇◇◇◇


 壁の一面に、石が一枚だけ、他と微妙に色が違った。

 近づいて見ると、その石の中央に、小さな穴があった。

 鍵穴だ。

 形は古く、今どき見かけないタイプだが、昨日の錆びた鍵と見比べた記憶と照合すれば、合う。

 おそらく、合う。

「鍵を持ってきていないのか」

 ロンが言った。

「持ってきた」

 ホームズがコートのポケットから錆びた鍵を取り出した。

「最初から持っていたのか」

「当然だ」

「だったら最初からそう言え」

「言う必要がなかった」

 ロンがまた何か言おうとして、ポワロが先に口を開いた。

「ホームズ、開ける前に確認しておきたいんだけど」

「なんだ」

「開けた後、何が起きるか、考えてある?」

 ホームズは少しの間黙った。

「考えていない」

「正直だね」

「わからないことを、わかったふりはしない」

 ポワロは小さく息をついた。

 それから、静かに微笑んだ。

「わかった。開けよう」


◇◇◇◇


 ホームズが鍵を穴に差し込んだ。

 錆びているせいで、少し抵抗があった。

 それでも確かに、鍵は穴に収まった。

 回した。

 石の壁の向こうで、何かが動く音がした。

 重く、低く、長い音だ。

 ずっと動いていなかった何かが、久しぶりに軋みながら動く音だ。

 壁が、動いた。

 正確には、石の一枚が内側へ傾いて、向こう側に細い通路が現れた。

 暗い。

 奥は見えない。

 全員が黙って、その暗闇を見た。

「行くのか」とロンが言った。

「行く」とホームズが言った。

「俺はここで待つ」

「来い」

「なんで」

「怖いんだろう」

「怖くない」

「耳が言っている」

 ロンの耳が、ぴたりと伏せた。

「……俺の耳は喋らない」

「さっき喋った」


◇◇◇◇


 全員で通路に入った。

 アーティだけが、入口で一瞬だけ立ち止まった。

 振り返って、外の光を見た。

 空はまだ雲が厚い。

 雨は、まだ降っていない。

 彼は薄く目を細めた。

 この場所のことを、彼はずっと前から知っていた。

 知っていて、来なかった。

 来る理由がなかった。

 今は、ある。

 アーティは通路に入った。

 石の扉が、ゆっくりと閉じた。


◇◇◇◇


 第三話 了

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