第二話「錆びた鍵が開ける扉と、頼まれていない依頼人」
◇◇◇◇
朝になっても、足跡は消えていなかった。
ホームズは昨夜からずっと同じ椅子に座っていたらしく、ロンが居間に入ったとき、すでに鍵を手の中で転がしていた。
眠ったのかどうかも怪しい。
「……また徹夜か」
「していない」
「目の下が言っている」
「目の下は喋らない」
ロンは額に手を当てた。
それからため息をついて、台所へ向かった。
朝の紅茶くらい自分で淹れる。
ホームズの分も、一応淹れてやることにした。
◇◇◇◇
ポワロが下りてきたのは、それから少し後のことだ。
白い耳を丁寧に整えながら階段を降りてきた彼は、居間の様子を一目見て、静かに眉を上げた。
「鍵、まだ調べているの」
「調べているというより、考えている」
「何を」
「この鍵が何を開けるか、ではなく」
ホームズは鍵を光にかざした。
朝の薄い光が、錆びた鉄の表面で鈍く散る。
「なぜここに置かれたか、だ」
ポワロは少し考えてから、ロンの隣に腰を下ろした。
ロンが無言で紅茶を一杯渡す。
ポワロが無言で受け取る。
長い付き合いのなせる業だ。
「置かれた、というのは」
「落ちていたんじゃない」
ホームズが静かに言う。
「棚の裏に、きれいに置かれていた。転がり込んだものじゃない。誰かが、あそこに置いた」
「意図的に」
「そうだ」
ロンが紅茶のカップを持ったまま、ぴたりと止まった。
「つまり、誰かがわざわざこの家に入って、台所の棚の裏に鍵を隠した、ということか」
「隠したのか、預けたのか」
「どっちでもこわい」
「怖くはない」
「俺は怖い」
ホームズはロンの言葉を特に拾わず、鍵を煤棚の上に戻した。
それから初めて、差し出された紅茶に手を伸ばした。
◇◇◇◇
問題が起きたのは、昼前のことだ。
玄関の扉が、三回、ゆっくりと叩かれた。
全員が顔を見合わせた。
霧の家に客が来ることは、まずない。
郵便物は隣町の私書箱に届く手筈になっているし、そもそもこの館の場所を知っている人間がどれほどいるのかも怪しかった。
「……出るか?」とロンが言った。
「出るべきだろう」とポワロが言った。
「出ない理由もない」とホームズが言った。
誰も動かなかった。
もう三回、扉が叩かれた。
エーテル教授が図書室から顔だけ出して、
「誰か出ろ」
と言った。
それで全員がようやく腰を上げた。
◇◇◇◇
扉の前に立っていたのは、小柄な人物だった。
年のころは十代の後半か、二十代の入口か。
くすんだ茶色のコートを着て、胸元に古びた封筒を抱えている。
耳は……丸く、小さい。
この界隈では珍しい形だ。
「あの」
その人物は、五人の顔を順番に見回してから、言った。
「ここが、探偵の家、ですか」
沈黙が落ちた。
ロンがホームズを見た。
ポワロがロンを見た。
ホームズは扉の前の人物を見ていた。
「探偵はいない」
ロンが答えた。
「でも」
その人物は封筒を少し持ち上げた。
「この住所に届けるように言われたんです。差出人は……名前がなくて」
封筒の表には、ただ一行だけ書かれていた。
『霧の家の、鍵を持つ者へ』
◇◇◇◇
五人で居間に戻った。
来訪者——彼女、と呼ぶことにした、座り方からそう見えた——は、促されるままソファに腰を下ろした。
ポワロが紅茶を淹れた。
ロンが腕を組んで壁に寄りかかった。
ホームズが封筒を手に取り、裏表をゆっくりと確かめた。
「いつ渡された」
「三日前です」
「誰に」
「知らない人でした。街で突然声をかけられて……この住所と、これを、渡されました」
「その人物の特徴は」
「背が高くて、帽子を深く被っていて……あと」
彼女は少し躊躇った。
「耳が、見えなかったんです。コートの襟を立てていて」
ロンの耳がぴくりと動いた。
ポワロが静かに眉をひそめた。
ホームズのオッドアイが、封筒に落ちたまま動かない。
「耳を隠していた」
「はい」
「意図的に」
「……そう思います」
ホームズは封筒を開けた。
中に入っていたのは、一枚の紙だった。
紙には、地図が描かれていた。
古い地図だ。
この町のものだが、今はもう存在しない区画が、几帳面な線で書き込まれている。
そして地図の中心に、小さな×印。
×印の隣に、ひとこと。
『鍵穴はここにある』
◇◇◇◇
「依頼を受けるつもりか」
ロンが訊いた。
「依頼ではない」
ホームズが答えた。
「誰も頼んでいない」
「じゃあなんだ」
「導かれている」
「それが一番こわい言い方だろうが」
ポワロが苦笑した。
彼女は紅茶のカップを両手で包んで、三人のやり取りを静かに目で追っていた。
「あの」
彼女が小さく口を開いた。
「私、また来てもいいですか」
全員が彼女を見た。
「何かわかったとき……教えてもらえますか。その、差出人が誰なのか、私も気になっていて」
ロンが頭を掻いた。
ポワロが微笑んだ。
ホームズは地図から目を離さなかった。
「来ても構わない」
ホームズが言った。
「ただし」
金と緑の瞳が、ようやく彼女を見た。
「我々は探偵ではない。何も保証しない」
「それでいいです」
彼女はそう言って、少し笑った。
◇◇◇◇
彼女が帰ったあと、しばらく誰も口を開かなかった。
最初に喋ったのはロンだった。
「なあ」
「なんだ」
「鍵を置いていった奴が、同時に地図の在処も仕込んでいた、ってことだよな」
「そうなる」
「つまり最初から、俺たちに調べさせるつもりだった」
「おそらく」
ロンは長い息を吐いた。
「俺たちは踊らされている」
「かもしれない」
「それでも調べるのか」
ホームズは地図を丁寧に折り畳んで、錆びた鍵の隣に置いた。
煤棚の上で、二つは並んで静かに収まった。
「踊るなら」
彼は静かに言った。
「せめて曲の正体くらいは、知っておきたい」
◇◇◇◇
階段の上で、アーティが聞いていた。
誰も気づいていない。
気づかせるつもりもない。
彼はただ、手すりに背を預けて、薄く目を細めていた。
黒い耳が、静かに動く。
『鍵穴はここにある』
その言葉を、彼はすでに知っていた。
◇◇◇◇
第二話 了




