第一話「錆びた鍵と、誰も頼んでいない調査」
◇◇◇◇
「また始まった」
ロンガーティーが、うんざりした顔でそう言った。
窓枠に寄りかかり、腕を組んで、外を見るともなく見ている。
その視線の先では、三毛猫の耳を持つシャーロックホームズが床の上の小さな染みを熱心に調べていた。
「染みが何かを語っているらしい」
ポワロ・マッカーソンが答える。
白い耳をゆったりと動かしながら、ソファの肘掛けに優雅に腰を下ろした。
どこか芝居がかった座り方だが、本人にその自覚はない。
ホームズが顔を上げた。
左目と右目の色が違う、いわゆるオッドアイだ。
金と緑、その瞳がすっと細くなる。
「染みじゃない」
彼は低く言った。
「これは足跡だ」
部屋には静寂が落ちた。
正確には、ロンが大きなあくびをした音がしたので、完全な静寂ではなかった。
「足跡……」
ポワロが興味ありげに首を傾ける。
白い耳がぴんと立つ。
「だとして、何の足跡なんだい、ホームズ」
「わからない」
ホームズは即答した。
「だから調べている」
◇◇◇◇
その建物の名前を、住人たちは「霧の家」と呼んでいた。
正式な住所があるかどうかも怪しい、古びた洋館の一角だ。
壁のあちこちにツタが這い、雨が降るたびに廊下のどこかで水が滴る。
管理人は二十年前に引っ越したと聞いているが、誰が聞いたのかは誰も覚えていない。
五人が、その館に住んでいる。
彼らがいつからそこにいるのか、なぜそこを選んだのかについても、誰も正確には知らない。
ただ、気づいたらそこにいて、気づいたら一種の共同体になっていた。
一番古株はモリアーティだ。
黒い耳を持つ彼は、館の最上階にある書斎を独占しており、基本的に降りてこない。
たまに一階まで下りてくると、それはだいたい何か悪いことの前触れだと、ロンは信じている。
「根拠は?」とポワロに訊かれるたびに、
「勘だ」
と答える。
勘を根拠に物事を判断するロンと、論理を好むホームズと、美しさと礼儀を重んじるポワロと、何を考えているかわからないアーティと。
それからエーテル教授だ。
短く整った耳を持つ彼は、もとは行き場のない身で、誰かに拾われたわけでもなく、ある朝突然台所にいた。
そのまま居ついた。
「名乗るとしたら何だ」と訊かれて、
「エーテル教授だ」
と答えたので、そういう名前ということになった。
肩書きの根拠は不明だ。
◇◇◇◇
足跡の話に戻る。
ホームズが主張するそれは、台所から居間にかけて続いており、最終的に暖炉の前で消えていた。
薄い茶色の、よくわからないもので残された跡。
「土かな」とロンが言った。
「泥かもしれない」とポワロが言った。
「血じゃないことを祈る」とロンが言った。
「においが違う」
ホームズが静かに言う。
「土でも泥でも血でもない。何か……植物性のもの、だが腐敗が始まっている。複数の成分が混じっている」
一同が静かになった。
今度こそ本当に静かになった。
「それって」
ポワロが、慎重に言葉を選ぶ。
「誰かが入ってきたってこと?」
「入ってきたか、何かが運ばれたか」
ホームズが暖炉の前で足を止める。
その目が、格子の向こうの冷たい灰を見つめる。
「あるいは、出ていったか」
◇◇◇◇
「やめてくれ」
ロンが窓枠から離れた。
腕を組んだまま、全身で不快感を表明する。
「怖い話は夜にするな。昼にするな。いつもするな」
「事実を述べているだけだ」
「事実が怖いんだよ」
ポワロが、二人の間に割って入るように首を振った。
「まあまあ。ホームズ、とりあえず確認できることから始めよう。この足跡、いつからある?」
ホームズは少し考えた。
「昨夜だ」
「昨夜、誰かがここに入ってきた」
「あるいは」
「あるいはって言うな」
ロンが唸る。
ホームズは特に気にしない。
「調べる必要がある」
「誰が頼んだ」
「誰も」
「じゃあやめろ」
「できない」
「なんで」
「気になるから」
ロンは盛大にため息をついた。
ポワロは、何か言いたそうにしながら、結局黙って自分の袖を整え始めた。
これが彼の癖だ。
考えるとき、彼は身なりを直す。
◇◇◇◇
そのとき、上から声がした。
「一時間前だ」
全員が顔を上げた。
階段の上の暗がりに、人影があった。
アーティが、いつからそこにいたのか、上から見下ろしていた。
黒い耳が暗闇に溶けて、その輪郭だけが浮かび上がっている。
目は暗く、深く、感情らしいものをほとんど映していない。
「何が一時間前なんだ」とロンが訊いた。
「足跡がついたのが」
「……見てたのか?」
「見ていた」
「誰が入ってきたんだ」
アーティは少しの間沈黙した。
手すりに片手を置いたまま、静かに立っている。
「人間ではない」
また沈黙が落ちた。
「……じゃあ何だ」
「わからない」
その答えに、ロンは何か言おうとして、やめた。
ホームズのオッドアイが光る。
「見えたんだろう」
「見えた」
「なのにわからない?」
「そうだ」
アーティは踵を返して、階段の奥へ消えた。
最後に一言だけ残して。
「おもしろいものが来た、と思った」
◇◇◇◇
台所の奥、棚の裏側に、小さな鍵が落ちていた。
ホームズがそれを見つけたのは、足跡を辿った末のことだった。
古い鍵だ。
鉄製で、先端が少し錆びている。
どこの錠に合うのか、見当もつかない。
彼はその鍵をじっと見た。
においを嗅いだ。
裏返した。
「何かが始まった」
その呟きを聞いていたのは、台所の入口に寄りかかっていたポワロだけだった。
「始まったって、何が」
「わからない」
「ホームズ、君はわからないことが多いね」
「わかったら調査しない」
ポワロは少し笑った。
白い耳が、台所の薄い光の中でゆったりと揺れる。
「それもそうだ」
二人はしばらく、その小さな錆びた鍵を見ていた。
どこかで風が鳴った。
霧の家が、軋む音を立てた。
◇◇◇◇
エーテル教授は、その日の午後ずっと、図書室の一番奥の椅子で眠っていた。
夕方になって目を覚ました彼は、入口に集まっている四人の様子を見て、一言だけ言った。
「また何か起きたのか」
「起きた」とポワロが答えた。
「厄介なことか」
「おそらく」
「それは」
エーテル教授は欠伸をした。
それから目を閉じた。
「いいことだ」
誰も否定しなかった。
◇◇◇◇
霧の家に夜が来る。
錆びた鍵は、暖炉の煤棚の上に置かれた。
足跡はまだそのまま床に残っている。
アーティは最上階に戻り、その気配だけが建物全体に薄く漂っている。
ホームズは、居間の椅子に深く腰を下ろしたまま、目だけを開けていた。
金と緑の、ちぐはぐな瞳が、暗闇の中で静かに光っている。
何かが、始まっている。
それが何なのかは、まだ誰にもわからない。
◇◇◇◇
第一話 了




