第16話 恋の芽生えとせんべえと
女神。この世界でそう呼ばれる存在はただ一人。
「なんだいお兄さん、トール教信者だったのかい」
およそ八百年前、トール教を世に広めた人物。耳長族の創造主にして冒険者ギルドの創設者。神の子をこの世界に呼び寄せたとされる、現人神。
女神スルーズ。神の子トールの伴侶であり、かの王が復活を遂げるまでの代行者だ。
「……『女神に聞かれる』って、私の言葉が?」
「そうだ」
そんな女神の、そしてトール教の敵そのものである松明持ちの騎士。神の子を殺し、またその復活を阻もうとする悪魔にリアが傾倒しているのは確かだが、なにぶん母親が敬虔なトール教信者のため、少女の心には女神という存在が深く根付いていた。
「な、なんですかそれ!」
だからリアは怒った。その言い方がまるで、女神に対する不敬だと責められているようで。
しかし、そんな激情も長くは続かなかった。
「私、ばちあたりなことなんて言ってません! 女神様に聞かれたらまずいことなんて何も————っ!?」
スッ、と右手を取られて肩が波打つ。揺らめくランタン、踊る影。
つながる手と手。
「リア、昨夜の契約を覚えているか?」
フードの奥で輝く灰銀の瞳が間近に迫り、息が詰まりそうになりながらもなんとか頷く。そんな簡単に忘れられるものか。内容はもちろん、何より右手の甲へと口付けを落とされたことなどは特に。
そう、まさに今のような体勢で。
「悪いが、少し追加させてもらう」
そこで、初心な少女はハッとした。
「できる範囲でかまわない」
次いで、ボッとした。
口から火が出そうだった。
「この先もし、今のような疑問を感じることがあっても……あまり口にはするな」
まさかまた、キスする気なのかっ。
と興奮気味なリアを落ち着かせるように、もう片方の手が上からそっと重ねられる。右手を包み込む一対の籠手。これはこれでドキドキするけど、なんだ、キスしないんだ。
(って私なんか残念がってない!?)
内心の動揺が態度にもれた、ほんの一瞬の隙。
「————『馬』」
不思議なつぶやきとともに、フェオの指先が手の甲を走る。
一秒にも満たぬ一筆書き。それに指先は、板金で覆われていない手袋部分。痛みなどない。
それでもリアは反射的にバッと手を引いた。くすぐったさでも気恥ずかしさでもなく、刹那に感じたのは確かな熱。しかしその感覚もすぐに立ち消え、灰銀の手から逃れた自らの手の甲をランタンの元で観察しても、これといって変化なし。
(おかしいな、確かに熱かったのに)
いたずら好きな妖精の被害にでもあったかのようにキョトンとするも、冷たく澄んだフェオの声に頬を叩かれる。
もしくは、心を射抜かれたとでも言うべきか。
「それと、約束してくれ。もしもの時は俺を呼ぶと」
「え?」
「もしも助けが必要な時。ほかの誰でもなく、真っ先に俺の名を叫ぶんだ」
急に何を言い出すんだこの人。リアはあごを引き、真っ赤な顔を下へと向けた。
ランタンが照らす砂利の地面には、鎧で固めた足元とお気に入りの編み上げブーツ。えいっ、と足を伸ばせば踏めちゃう、そんな距離。
もちろんそんなことはせず、上目遣いで尋ねてみる。
「それは、あれですか? そのー……ピンチの時には俺が駆けつける、的な?」
いわゆる白馬の王子様、みたいな。なんちゃって。
と、モジモジしながら内心で黄色い悲鳴を上げるも。
「違う」
「そ、そうですか、エヘヘ……じゃあピンチになったらフェオを違うのぉ!?」
すぐにただの悲鳴となった。いっそ殺して。
(だって勘違いしちゃうじゃんそんなふうに言われたら! ていうか白馬の王子様って何!? そんな憧れがあったのリリアーナ!?)
ちょっぴりあったかも、と自問自答。頭を抱えて懊悩煩悶。もうやだ変な声出そう。
そして実際に、リアの口から濁音混じりの声がもれ始めた時だった。
「飛んでいく」
ピタッ、と固まる体。
途切れるうめき。止まる呼吸。
「すぐに飛んでいく。リアがピンチの時には、必ず」
バカみたいに高鳴る胸。
「だから、俺を呼べ。いいな?」
白馬ではなく、どうやら天馬に乗って飛んでくるらしい王子様に見つめられ、リアは熱に浮かされたまま頷いた。
「————はい……」
吐息多めの同意に、フードの奥で小さくクスリ。彼が笑った。
もっと、ちゃんと、近くで見たい。
そして夢うつつの少女が、灰銀の足を踏まぬよう半歩だけ進み、真っ黒なローブのあまりをキュッと掴んで——
——バリッ。
場にそぐわぬ音。え、と顔を向ける。
雨雲のソファーで寝転ぶドナが「あ、続けて続けて」とせんべえ片手に身振り手振り。世界観的に、せんべえはちょっとアウトでは。
じゃなくて。
「い、いつから見て……!?」
素知らぬ顔で再びバリッ。
「モグモグ、じゃないんですよ! 何のぞき見してるんですか!」
「いや、目の前でいきなりおっぱじめたのはそっちさね」
せんべえを食べ終えたドナが「よっこらせ」と起き上がり、足を組みながら座り直す。
そして、頬杖をついてニヤリ。
「で、続きは? キスシーンの」
「そんなシーンありません!」
「あらそう、その気な顔だったもんでつい」
どんな顔だ、とは思うものの二の句が継げず。
するとそのタイミングで、遠くからセシルの声が。
「おい、何を騒いどんねんランタン係! 暇ならちょっとこっち来んかい!」
「! すぐ行きます!」
これ幸いと、リアは一目散に逃げ出した。
セシルはまたお宝を見つけたらしい。
といっても今度は箱でなく、トロッコの中。
「オーエス! オーエス!」
「ぐぬぬぬっ……!」
線路上に放置された二台連結型の木製トロッコ。
奥へ続く側のトロッコには座席と、乗り降りに便利な開閉式の低い仕切り。もうひとつのトロッコはシンプルに高い仕切りだけ。動力は謎だが、人が乗る前のトロッコが土砂などを積む後ろのトロッコを引っ張っていく構造らしい。
そして、ここはかつての鉱山。運んでいたのは土砂だけでなく様々な鉱石もあったはず。
そこに目を付けたセシルは今、座席の背もたれの上で器用に踊っていた。
「オーエス! オーエス! オラッ、もっと気張らんかい!」
訂正、応援していた。後ろのトロッコで大きな岩を持ち上げようと踏ん張るライアンの尻を、今にも叩かんばかりに。
「な、なんで僕が、こんなことをっ……!」
「グチグチ言うてる暇あんなら腰入れろや腰ぃ!」
訂正、腰だった。まあどっちでもいいや。リアは木枠にあごまで乗せ、気だるげに寄りかかりながらトロッコ内部をランタンで照らした。
木目の囲い。土砂がわずかに残る底板。人ひとりではどかせそうにない大岩。お目当ての鉱石はその陰にあるが、肉眼で確認できる限りごく少量。種類が何かもわからない。
セシルに聞けばわかるんだろうが、そんな気も起きない。
(……さっきの、なんだったんだろう)
再び「オーエス! オーエス!」と騒ぐセシルに合わせて「おーえす、おーえす」と適当に調子を合わせながら考えるのは、離れたところでドナと会話しているフェオのこと。「逆に力が抜けるんだが!?」というライアンからの文句を物憂げなため息で流す。
(『女神に聞かれる』ってどういう意味?)
改めて思い返すと、ばちあたり的なニュアンスではなかった。信心深くもなさそうだし。それに、宝箱の疑問を口にしてはいけないのはなぜか。似たような疑問とは何か。
そして彼は、自分にいったい何をしたのか。リアは自らの右手の甲をチラリと見下ろした。
(俺の名を呼べ……すぐに飛んでいく、か)
ここまで付き合う理由も未だ不透明な、灰銀の手足と髪色をした黒ローブの青年。
(なんか、フェオって……)
その謎はまるで、海の底へと落ちていくようにますます深まって——
(フェオって私のこと好きなのでは!?)
——急浮上。浅瀬でチャプチャプし始めた。
(だってあんな『お前のことは俺が守るぜ』みたいなセリフ、好きな人にしか言わないってアリスも言ってたし! つまり一目惚れってこと!? これが噂の!? キャーッ!)
「お、おいランタン係!? 急に揺らすなや!」
「本気で邪魔なんだが!?」
(ハッ! でも待って? アリスが言ってたのは『好きな人に言われたい』だったような……)
二人を丸ごと無視して、リアは再び物憂げなため息をついた。
木枠へ掛けた腕を枕に、闇と混ざり合ったフェオを遠目で盗み見る。
(……うすうす、気付いてはいたけど)
ドナと会話中の彼。どちらかというと問い詰められているようで、何やら真剣。
(考えないようにしてたけど)
でも、隣に女性がいるだけで胸がモヤモヤ。
たぶん、これは嫉妬。
(一目惚れは……フェオのほうじゃなくて、私の——)
——ゴチンッ!
トロッコの角へ頭突き。痛い。力加減を間違えた。
だが、おかげで決定打を回避。あり得ない。認めない。
それに今は、それどころじゃない。
「だ、大丈夫かリリアーナ嬢? プスプス言っているが……」
「思春期の情緒こわってうお!?」
「私に何か仕事をください!」
ガバッと起き上がり、瞳に宿すランタン要らずの炎。
そんな熱血少女にやや怯みながらもセシルが指示を下す。
「ほ、ほな、こっちのトロッコにもなんか珍しいもん落ちてへんか探して——」
「はいっ! 私にお任せを!」
「——ほんま、なんやのこいつ……」
「クルス家はいったいどんな教育を……」
実家の名誉を傷つけたとも知らずに、リアは座席の足元をランタンで照らしながら底板をくまなく探り始めた。
自分は、なんのため冒険者になったのか。
「意外と中はシンプルですね、掴まるための棒だけで。これ、どうやって動くんですか?」
「たぶん魔法やけど、ウチは門外漢やで。それよりなんかあったか?」
なんのために今、ここにいるのか。
「うーん、特に何も……あっ、レバーがありました」
「そりゃブレーキってそういう構造の報告はいらんねん」
決して、恋などにうつつを抜かすためではない。
そう、自分は——
「あ、変なボタンも発見しました隊長!」
——みんなをギャフンと言わせるためにここへ来たのだ。
「誰が隊長や。ノリノリなんはええけど、ノリでそういうの絶対押すなよ」
という具合に、もはやこの物語の主題も副題も変更を余儀なくされそうなほど本来の目的を見失ってはいたものの、気合だけは十分。
「! はいっ!」
そんな気合を指先に乗せ、ボタンをポチッとな。
「……へっ?」
「えっ?」
「おっ?」
一音だけの輪唱。
——ガコンッ!
そして不運な偶然かつ必然の連続。
「キャッ!?」
トロッコが揺れ、吹き飛ぶ少女が強制着席。
「ニャニャッ!?」
その衝撃で、背もたれの上から猫耳幼女が転げ落ちる。
落下先は後方車両、赤毛の剣士の背中。
「ぐおっ!?」
思わず踏ん張る彼の足元には、少し浮いた木の板。自力で持ち上げることを諦めて準備した梃子の原理だ。
人を吹き飛ばすほどの揺れが大岩を一瞬だけ浮かし、その浮力を後押しする絶好のタイミングでシーソーを踏み抜いた結果。
——ポーン。
大岩は、少しだけ高く上がった。
きれいに真上へ。トロッコの囲いをギリギリ超える程度。ただ、それだけで十分。
その一瞬、確かに重石は取り除かれたのだから。
——ギャリッ————。
「あっ——」
座席へと磔にされる、目に見えない圧力。
「ゲッ——」
トロッコの縁に掴まった幼女の、身軽な体を浮かす推進力。
「いっ——」
最後部へともんどりうつ赤毛頭に、真上へ飛んだ岩影は落ちず。
がなる車輪と線路の噛み合い。
——ギャリギャリギャリギャリィィィ————ッ!
かくして、ズシンッと落ちた岩を置き去りに。
『ギャアアアァァァ————……』
三人分の悲鳴を引き連れ、暴走トロッコは発進したのだった。




