第11話 月だけしか知らない
それは、気を失ったとは言えぬほどの一瞬だったらしい。
「デレクッ!」
名を呼ぶ老人の声。己の名でなくとも、目覚まし代わりにパチリ。
視線が低い。ペタン、とお尻にレンガの感触。腰が抜けていた。
「わわわっ……!」
三角屋根の傾斜に引かれ、視界が夜空へ。落ちちゃう。
そしてリアがとっさに掴んだのは、フェオの黒ローブだった。
「大丈夫か?」
「あ……うん」
背中へ回される手。支えながら覆い被さってくる彼。心臓が忙しなくなるが、すぐに甘いものではなくなった。吹き出る冷や汗。
大丈夫なんかじゃない。だって今、刺されて——
「——ない……あれ? どこも痛く、ない?」
「刺されていないからな」
なるほど、と放心気味に納得。助かったのか。
どうして、などという疑問は野暮だろう。すがりついた胸元から顔を上げると、静かにこちらを見下ろす灰銀の瞳が。
(……また、助けられちゃった)
夜風に揺れる灰髪と月に映える美貌。フードが取れている。きっとまた、颯爽と助けてくれたに違いない。
リアはやや恥ずかしげに、前回の分すらまだ言えていない感謝を伝えようとした。
「あの、その、ありが——」
「すまない」
だが、またもや伝えられず。
フェオが静かに首を振る。
「加減できなかった」
「? 加減って……」
「デレク! しっかりせい!」
叫び声に振り返ると、ゲンドゥルがデレクの元へ駆け寄っていた。落ちるギリギリ、屋根の縁で仰向けになる弟のような人。意識がないらしい。
サッ、と血の気が引いた。
「まさか、死んで……」
リアが声を震わすも、ゲンドゥルは肩の力を抜いてひと息。
「いや、のびてるだけじゃな。殴られた顔面はひどいことになっとるが、そのうち起きるじゃろうて」
ヘナヘナと腰が抜けそうだったが、そういえばもう抜けちゃってた。
「もう、ビックリさせないでくださいよ。変なこと言うから、私てっきり……」
「怪我はさせない。そう言った手前な」
「あなたはちょっと言葉が足りないと思います」
ジト目を送るとゲンドゥルが続く。
「それにお前さんだってそんな傷を負っとるのに、人が良すぎじゃろ」
告げられた新事実。怪我。どこを。
慌てて探すまでもなく、一目瞭然。
「! フェオ、手が……!」
「あぁ、これか」
軽い返事で掲げる右手。灰銀の籠手。
その手のひらのグローブ部分から板金を重ねた鉄甲部分へ、デレクの細剣が刺し貫いていた。
「これもお前が鍛えた剣か? さすがクルス家のお抱え鍛治師だ、ものすごく痛い」
「ならもっと痛そうにせんかい」
リアは混乱した。痛そう。いや、痛い。
心配、感謝、不安に恐怖。責任と罪悪感。グルグル涙目で絶賛パニック中。
「痛いというのは反応であって、それをわざわざ表現するのは痛くないということなのでは?」
だから、気がつかなかった。ゲンドゥルがいつの間にかそばにいたことに。
そして、デレクの細剣へと手を掛けたことに。
「なんじゃいその屁理屈。ま、それよりも……」
白眉の下で小さな目配せ。灰髪を軽く揺らす頷き。
すると、一呼吸置いて。
——ブシャッ……!
周囲へ飛び散る鮮やかな血に、リアは絶句した。フェオの手に突き刺さる剣をゲンドゥルが引き抜いたのだ。
雌火の細剣、並びに雄炎の両手剣の恐ろしさは、切れ味よりも出血効果にある。その炎のように波打つ刀身が肉へと食い込み、刺突して引き抜くと傷口をズタズタに広げてしまうのだ。まさに、今のフェオの右手のように。
「お前さん、本当に痛がらんのう。こちらとしては大助かりじゃが、な——」
——チャキッ。
「っ! もうやめて!」
向けられる細剣。蛇の歩みのような切先に息を呑み、リアは恥も外聞もなくフェオへと抱きついた。彼をかばったのだ。
しかし、勘違いだった。
「七霊が主、ガルドの火を継ぎしゲンドゥルが命じる。癒せ————『金蛇刃』」
ギュッと目をつむってその不可解な文言を聞き流すと、ギュッと抱きしめていた相手に背中を優しく叩かれる。
「安心しろ、リリアーナ・クルス。逆だ」
「……逆?」
身を離しての潤んだ上目遣いに、ほんのり光が乱反射。
「どうやら治してくれるらしい」
光は刃の先端から。淡いさざ波がまだ明けぬ夜をほのかに明かし、リアは思わず「わぁ……」と感嘆の声をもらした。
やがて消えたところで、蓄えられた白い髭が大きく揺れる。
「プハー……どうじゃ? 久しぶりに使うから、いまいち自信ないんじゃが」
「いや、十分だ」
フェオが右手を握っては開き、握っては開き。籠手をグッパッ、グッパッ。なんの支障もなさそう。ズタズタになっていたはずの傷口もふさがっている。
本当に、治してくれたんだ。
「すごいすごい! ゲンさん、魔法が使えたのね!」
「魔法と言うと語弊があるがのう。それにわしではなく、この剣の力じゃて」
ということは、自分も使えたりして。リアは自らの腰に下げている家宝をハッと見下ろした。父の愛剣であるこれも『七双宝剣』のうちの一振り。この細剣にもきっと何か魔法が。
そんなワクワクは、ゴツン、と額を屋根へ打ちつけたゲンドゥルによって打ち消された。
「ど、どうしたのゲンさん?」
「……お前さん、姓などは?」
「ない。ただのフェオだ」
「ではフェオ殿、まずは先ほどの非礼を詫びたく。そして姫様を救っていただき、大変ありがたく存じる。もし、貴殿がいなければと思うと……まことゾッとして、言葉も出てこない次第じゃ。本当に、助かりもうした」
両拳まで打ちつけ、背負った両手剣に押し潰されながら頭を下げるゲンドゥルに、リアはポカンとした。
お礼、先に言われちゃった。
「そこの騎士見習いを刺激したのは俺のようだから、別に礼は要らない」
「いや、それこそこちらの不徳と致すところ。そしてあまつさえ、そんな我が弟子さえも救っていただき……。姫様のお顔に傷ひとつでも付けていたら、あやつはもう二度と剣を握れなかったじゃろうて」
「それこそ別に、そいつのためじゃない」
「……姫様のためだと?」
ふと、固まる空気。感じる視線。ゲンドゥルに負けた気がして打ちひしがれていたリアが顔を上げると、一瞬だけフェオと目が合った。
すぐに逸らされたが、そんなことよりも。
「そういうことになるな」
預けるこの身は腕の中。しがみつくのは彼の胸。美貌は、すぐ真上。あわわ。
顔を真っ赤にしたリアは今さらながらに逃げ出そうとしたが、腰が抜けたままなので上手くいかなかった。
「……『護衛以外の何者とも思えなかった』と。『指一本触らせない。そんな圧を感じた』と。誰にも屈することなきあの魔女が、そう青ざめておったわい」
ただ抱かれやすい位置を探るためにモゾモゾ動いただけのようになってしまったところで、ゲンドゥルが思わぬ名前をつぶやく。
「やはり、ドナの言うとおりじゃったか」
「? ドナ?」
豊かに波打つ黒髪の上に、三角帽子を乗せた魔女が頭にパッと浮かぶ。父が指名した冒険者なのだから面識があっても当然なのだが、リアは縁故があるのはセシルだと思い込んでいたので、少しばかり驚いた。なんだか馴染みの雰囲気だし。
「ゲンさん、ドナと知り合いだった————のっ!?」
突如、お尻に浮遊感。膝裏と背中を抱く腕の間に、抜けた腰がすっぽり。思わず首へガシリ。
なぜか、二度目のお姫様抱っこ。
「では、礼代わりにこいつは頂いていく」
「なぬっ!?」
今さらな誘拐宣言にゲンドゥルが驚くも、リアはそれどころではなかった。
しゃべるたび、フェオの息が耳に。
「ま、待て! 助けてくれたことには感謝するが、ここで姫様を連れていかれたらお館様に顔向けが……!」
「そんなこと、俺は知らない」
まずいもう変な声出そう。
そんな我慢大会の様相を呈してきたリアへと、さらなる追い討ちが。
「跳ぶぞ、ちゃんと掴まれ」
その名も、ささやき攻撃。内容が愛でなくとも威力は抜群。もはやわざとか疑ってしまうが変な声はギリギリこらえる。
代わりに、軽い悲鳴を上げた。
——ダンッ!
「キャッ!?」
「こ、こりゃ、お前さん!」
声を振り切り月へと近付く、夜の空中散歩。石畳の通りを飛び越え、向かいの屋根へと着地。追うことができずに立ち尽くすゲンドゥル。
フェオが振り返って告げる。
「迎えは要らない。明日、俺が屋敷まで送り届けよう」
「ええい勝手に話を進めるでないわっ! お前さんは知らんじゃろうが、お館様とて娘かわいさに連れ戻したいわけでは——」
「二代目にはこう伝えろ」
ピタッ、とゲンドゥルが振り回していた腕を止めると同時に、リアも恥ずかしさを忘れて眉をひそめる。
四百年前に存在した剣聖ガルド。そして現代の剣聖グラン。その間に『剣聖』という存在はおらず、二代目という認識は正しい。
だけど、父をわざわざ二代目と呼ぶ人はいなくて。
「あと一日だけ、俺が代わりを務める」
その自然な呼び方は不思議と、空白の四百年という長い時をなんでもないことのように感じさせた。
「……代わり、じゃと?」
「双炎十字の白コートに魔女の結界、さらには『陽炎稲妻』か。それでも《《もって二週間》》という読みは正確だったが、一日ぐらいならなんとかなる」
「っ!?」
並べ立てられた言葉に、愕然とするゲンドゥル。
口を挟んでいいものか迷ったが、リアはしがみつくローブのあまりをおそるおそる引っ張った。
「ねぇ、なんの話?」
「お前は知らなくていい」
「あ、またそうやってもうっ! それにいい加減、そのお前って言うのとフルネーム呼びやめてください! リリアーナか、もしくはリアと——」
「リア」
——トスッ。
と左胸に、矢が刺さる感触。
矢尻はハートマーク。
「これでいいか?」
「は、はい……」
「良し、では行こう」
矢を放った白い翼の天使ならぬ、二羽そろった黒い翼のカラスが空から舞い降りてきても、リアはただただ小さく首を振るばかりだった。違う違う、絶対違う。いきなりで驚いちゃっただけだから。まだセーフだから、セーフ。
という自分ですらもうよくわからない胸の内の言い訳でも聞こえたか、フギンが「アホー」とひと鳴き。それを合図にフェオがクルリ。
「あ。待て、まだ話は——」
「さらばだ、白きドワーフ」
そして、夜空の月へとフワリ。
追いすがる野太い声を背中で弾く。
「ひっ、姫様ぁ————っ!」
「あの、えと……し、心配しないでねーゲンさーん!」
慌てて手を振るも、あっという間にそのずんぐりむっくりな姿が見えなくなる。
屋根から屋根へ。重さを感じさせず次々に、黙々と飛び移るフェオ。揺れの少ないその腕の中でふと思う。
(なんで私、こんなことになってるんだっけ?)
密度の濃い、満ちた月の夜。わからないことだらけで聞くべきことが山ほど。それに「いえすろりーた、のーたっちは?」とか「三秒ルール破ってない?」なども。
「……ねぇ、フェオ」
「なんだ?」
だがリアは何も尋ねず、静かに首を振った。
「やっぱり、なんでもないです」
「? そうか」
頷いて前を向く彼の、月明かりが照らす美しい横顔をジッと見つめる。ドキドキするのになぜか、すごく安心する。
今はただ、この甘さと懐かしさに、身を委ねていたい。
(なんちゃって。フフッ、変なのー……)
そしてリアは口元を緩ませ、自然とまぶたを落とした。うつらうつらとする間もなく立て始めたのは穏やかな寝息。かなり疲れていたらしい。長い夜の果てにたどり着いた揺りかごの中で、凛々しさよりもあどけなさが目立つ寝顔を晒し、少女はいつしか眠りについた。
「……やっぱり、変わらないな」
「クァ?」
「アホー」
それに気付いた青年の、常に無表情なその顔にほんの少しだけ笑みが浮かんでいたことは、お供のカラスと月だけしか知らない。




