道に迷ったら
2月12日
週明けの月曜日、川野は振替休日を取っていた。
朝、いつもより少し遅く起き、寝巻きのまま、ダルそうにソファーにもたれる川野。
とりあえずTVのワイドショーをつけているが、どんな情報もBGMのように、耳から耳へ抜けてしまう。
昨日は色々な事があって、感情がグチャグチャになっていたが、こうしてボーッとしていると、ある考えが浮かんできた。
「⋯会社、辞めようかな⋯。」
重く腫れた瞼を擦りながら、川野はそう呟いた。
川野は、横浜支社から東京第二支社に、左遷されて来た。
周りの人が良い人達で、前向きに頑張ろうと、ここまでやってきたつもりだったが、そもそも、その考え自体が図々しかったのかも知れない。
当時の上司だった堀田が、上部にある事ない事を吹き込んだ影響もあったが、それでも川野は会社から一度、NOを突き付けられた分際だ。
“会社を辞めろ”と言われたも同然なのだから、普通だったら、その時点で辞めるべきだったのだろう。
残暑厳しい中、あの蒸し暑く、薄暗い倉庫に放り込まれ、なぜ平気な顔をしていたのか。
おまけに、呑気に恋愛まで楽しんで、周りを振り回して、傷付けて⋯。
どれ程、面の皮が厚いのだろうか。
「今の会社を辞めて、地元に戻って、もっと忙しくない再就職先を探して。婚活して、家庭を築いて⋯。」
川野の頭の中で、今とは別の道の未来が、ぐるぐると駆け巡る。
増岡には散々世話になったが、昨日の電話のやり取りがあってから、正直、以前の様に仲良く出来る自信がない。
佐渡はとても優しくて、良い男だ。
だから尚更、彼の目の前の席に、座り続けるのが心苦しい。
山本には、幸せになって欲しい。
でも、他の誰かと幸せになるところを、見届けたいと思うほど、心は広くない。
要は、川野は、今の環境や人間関係をリセットしたくなってしまったのだ。
「退職届って、どう書くんだっけ⋯。何々?⋯通常は、辞める1ヶ月前〜2ヶ月前に提出するのか。長いな⋯。退職代行サービスを使えば、増岡とは直接、話さなくて済みそうだよな⋯。いや、流石にそれは駄目か。色々とお世話になったから、一応、礼儀は必要だもんな。でも、気を引きたいだけだと思われて、また面倒臭そうに対応されたら、キツいなっ。」
ブツブツと独り言を言いながら、スマホで退職方法を検索する川野。
完全に、ネガティブになっている。
「そう言えば、ここに引っ越して来てから、一度も横須賀帰ってないな⋯。平日だから、ハローワークも開いてるし。よしっ!もう少ししたら、久々に行ってみるかっ。」
そう言って、身支度を始める川野であった。
昼下がり。
ジーパン姿に黒いジャンパーを羽織り、帽子を深々と被った川野は、赤い電車に飛び乗った。
最寄り駅は、鈍行列車しか止まらないため、途中駅で急行に乗り換えた。
どんどんスピードを上げていく列車。
川崎を過ぎ、横浜を過ぎ、トンネルが多くなってきた頃には、横須賀に入った証だ。
横須賀中央駅で、電車を降りた川野。
久しぶりの地元に、テンションが上がっている。
本当は、隣駅が最寄りの、ハローワークへ行くつもりだったが、気が変わったようだ。
「ふぅっ⋯。やっぱ、横須賀最高っ☆」
改札を出て、大きく深呼吸をしながら、川野はそう呟いた。
横須賀は、米軍基地があるため、異国情緒が漂う港町だ。
海と山の景色が広がっていて、だいぶのんびりとした空気が流れている。
慣れた足取りで商店街を抜け、海辺の公園へ向かう川野。
米軍基地のゲート横の裏道に入り、どんどん歩調を速めて行く。
その突き当りが公園だ。
「着いたっ!」
そこには、雲一つない青空の下、薄鼠色の戦艦三笠が、静かに佇んでいた。
川野は高校生時代、この三笠公園で、よく友人達と何時間も話し込んでいた。
青春を謳歌した、とても懐かしい思い出の場所だ。
公園の奥には芝生広場、野外ステージ、噴水などがあり、どこからでも海が見渡せる。
向かいには、普段は立ち入る事の出来ない、米軍基地の一部や、海に浮かぶ猿島が見え、晴れた日には、更に向こうの東京湾の対岸、千葉県が見える。
戦艦三笠を、じっと眺める川野。
「その節は、大変お世話になりました。」
川野は、ごくごく普通の大学出身だ。
これといった特技も無く、就職活動時の自己分析や面接には、大変苦労した。
なかなか内定が決まらず、就職を諦めかけていたのだが、インターネットの求人で、ふと“三笠企画”が目に止まり、その名前に惹かれ、職種もよく分からないまま、エントリーしてみた。
最終面接まで、何とか漕ぎ着けた川野。
社長も含めた上部との面接は、とても緊張して上手く自己アピール出来なかったのだが、横須賀出身だという事に社長が興味を示し、その話で盛り上がった。
社長曰く、三笠企画の名前は、日露戦争を生き抜いた、戦艦三笠から取ったそうだ。
厳しいこの世の中で、この会社が末永く生き抜いて行けるよう、願いを込めて付けたらしい。
なので、川野が三笠企画に就職出来たのは、ほぼ、戦艦三笠のお陰、様々なのだ。
会社に入れてもらったからには、それはもう一生懸命、会社に貢献しようと頑張った川野。
何も分からず、泣いてばかりいた不器用な新人が、今はバリバリと仕事をこなす中堅社員になった。
「⋯図々しいけど、もう少し、続けてみようかな⋯。」
そう言って川野は、戦艦三笠の手前に建つ、東郷平八郎像に駆け寄り、帽子を脱ぎ、姿勢を正してビシッと敬礼をした。
それから川野は、久々の三笠公園を満喫した。
猿島がよく見える位置のベンチに座り、ゆったりと景色を眺めながら、温かい缶コーヒーを飲んでいる。
ピロリロリン♪―
スマホが鳴った。
画面を見ると、増岡課長からの連絡だった。
今一番、話したくない人かも知れない。
無視を決め込むことにした川野。
ピロリロリン♪―
ピロリロリン♪―
ピロリロリン♪―
何回も電話を掛けてくる増岡。
出たくないのだが、ここまで掛かってくると、仕事でミスをしたかも知れないと、気になってしまう。
ピロリロリン♪―
「あぁぁっ〜!もうっ!」
川野は、ついに根負けし、電話に出た。
「⋯もしもし、川野ですけど。」
「おうっ!お疲れっ。今、大丈夫か?」
まるで、何事もなかったような口ぶりで話す増岡。
「お疲れ様です。何の用件でしょう。」
淡々と尋ねる川野。
「いやっ、えっと⋯。昨日はお疲れ様!まだ、休日出勤してくれた皆に、労いの言葉をかけてなかったと思ってねっ。」
「はぁ、ありがとうございます。失礼します。」
ブチッ。
川野は、失礼のない最低限の言葉を言い残し、電話を切ってやった。
彼女の静かな怒りは、増岡へも十分、伝わっただろう。
それ以降、電話は掛かって来なかった。
何が、労いの言葉だっ。
どうせなら、昨日労って欲しかったくらいだ。
あんなに冷たくしたクセに。今更、何だよっ。
そう思いながら両腕を空に上げ、思いっきり伸びをする川野であった。




