2a
王城、執務室――。
夜はとっくに更けていた。
机の上には、山のように積み上がった書類。
封も切られていない報告書、各地から届く嘆願書、軍備の確認、税収の報告――。
だがアルヴェインの手は、ほとんど止まっていた。
窓の外では雨が降っている。
静かな雨音だけが、広い執務室を満たしていた。
母が倒れた。
その事実が、ずっと頭から離れない。
いつもなら今頃、母は地下研究室に籠もり、狂気じみた熱量で魔術式を書き続けていたはずだった。
けれど今は違う。
血の魔術による侵食。
肉体も精神も、少しずつ蝕まれている。
それでも母は研究を止めなかった。
止まれなかった。
だからこそ、アルヴェインはここに座っている。
父の遺した国を守るために。
王家を崩さないために。
母の代わりに、国を背負うために。
「……カルヴェスが付いているなら、大丈夫だ」
誰に言うでもなく、小さく呟いた。
弟は優秀だった。
母に似て、恐ろしいほど魔術の才がある。
きっと母の支えになっている。
そう思わなければ、やっていられなかった。
ふう、と息を吐いたその時だった。
コンコン――
静かなノック音。
アルヴェインは顔を上げる。
「入れ」
扉が開き、現れたのはカルヴェスだった。
紅い髪。
疲労の滲んだ瞳。
黒衣には薄く血のシミがついている。
その姿を見た瞬間、アルヴェインの胸に嫌な予感が走った。
「……母上は」
問いかけるが、カルヴェスは答えない。
数秒、沈黙した。
その沈黙だけで、十分だった。
ああ――良くないんだな。
アルヴェインはゆっくり目を伏せる。
「……正直に言え」
カルヴェスは視線を逸らし、小さく息を吐いた。
「侵食率は三割を超えた」
その瞬間、部屋の空気が凍りついた。
アルヴェインの指先がぴくりと震える。
「……早すぎる」
掠れた声だった。
カルヴェスは淡々と続ける。
「血の魔術への適応が異常なんだ。常人なら、とっくに精神が崩壊してる」
静かな声。
だが、わずかな震えが混じっていた。
アルヴェインはそれを聞き逃さなかった。
――辛いよな。
お前だって。
母を一番近くで見ているのはカルヴェスなのだから。
アルヴェインは目を閉じた。
沈黙。
雨音だけが響く。
やがて彼は、疲れ切ったように椅子へ身体を預けた。
「……止められないのか」
「止まるなら、とっくに止まってる」
カルヴェスは兄を見る。
「兄上だって分かってるだろ」
分かっている。
もう母は普通には戻れない。
あの研究に呑まれている。
だが、それでも。
希望があるとすれば――カルヴェス。
お前だ。
「俺は……国を守らなければならない。王家が崩れれば民が死ぬ。貴族は腐り、他国は侵略してくる。だから俺は、父上の残した国を守るしかない」
その声は、自分自身へ言い聞かせているようだった。
カルヴェスは静かに兄を見つめる。
「……兄上は昔からそうだ」
「何がだ」
「全部、一人で背負う」
アルヴェインは鼻で笑った。
――お前も背負わされているじゃないか。
俺が託した、母への想いを。
カルヴェスは机へ歩み寄る。
積み上がった書類へ視線を落とした。
「兄上は王に向いてるよ」
突然の言葉だった。
アルヴェインが眉をひそめる。
「嫌味か?」
「いや」
カルヴェスは静かに首を振る。
「俺には無理だ」
紅い髪が揺れる。
「俺は母上に似た」
その声音は、どこか自嘲めいていた。
「知識を追い求めることしか出来ない」
アルヴェインは弟の視線を追う。
カルヴェスの指先。
そこには薄く、魔力侵食の痕が浮かんでいた。
アルヴェインの瞳が鋭く揺れる。
「……お前」
胸の奥が冷たくなる。
やめろ。カルヴェス。
お前まで、そちら側へ堕ちるな――頼む。
母と同じ道を歩かないでくれ。
カルヴェスはしばらく黙っていた。
指先を見つめたまま、静かに息を吐く。
やがて――決意したように口を開いた。
「……兄上」
アルヴェインは不安げな視線を向ける。
カルヴェスは一瞬だけ躊躇した。
珍しいことだった。
そして――
「……母上を助ける方法なら、ある」
ギィッ――!!
椅子を激しく軋ませアルヴェインは勢いよく立ち上がった。
「……何だと?」
空気が震える。
カルヴェスは兄を真っ直ぐ見返した。
「母上の研究を、俺が完成させる」
沈黙――アルヴェインの表情から感情が消える。
カルヴェスは続けた。
「血の魔術を、俺が引き継ぐ」
――バンッ!!!
凄まじい音が響いた。
机へ叩きつけられた拳。
書類が宙へ舞い、床へ散らばる。
「馬鹿なことを言うな!!」
怒声が執務室を揺らした。
その後のことは、アルヴェイン自身もよく覚えていなかった。
頭に血が上っていた。
王たる者、冷静でなければならない。
父の遺志を継ぎ、国を守らなければならない。
なのに――カルヴェスまで失ったら――
俺は、何のために生きればいい。




