1a
雷鳴が王城を震わせていた。
窓を叩く豪雨。
空を裂くような白い閃光。
幼いアルヴェインは、厚い毛布に包まりながら、遠くで響く雷の音に怯えていた。
そんな彼の髪を、優しい手が撫でる。
「大丈夫よ、アル」
穏やかな声。
振り向けば、そこには母――アーヴェレッヘがいた。
長い赤黒い髪を揺らし、 柔らかな微笑む。
まるで聖母画から抜け出してきたような、美しく慈悲深い王妃そして、国一番の魔術師。
「母上……」
「すぐ戻るわ。研究に必要なお薬を取りに行くだけ」
アーヴェレッヘはそう言って微笑み、額へ口づけを落とした。
「嵐が怖いなら、父上のところへ行っていなさい」
その言葉通り、アルヴェインは執務室へ向かった。
王ユリウスは厳格な男だった。
笑うことは少ない。
常に国を優先し、弱さを見せない王。
だが、そんな父が母を見る時だけは違った。
「また庭へ出るのか」
「ええ。今摘まないと駄目なの」
「使用人に任せろ」
「魔力草は摘む者の魔力に反応するの。私じゃないと意味がないわ」
困ったように笑う母に、ユリウスは深くため息をつく。
「……すぐ戻れ」
「はい、あなた」
母は嬉しそうに笑った。
アルヴェインは知っていた。
父は母を愛していた。
そして母もまた、父を深く愛していたことを。
だから――あの日の出来事は、あまりにも突然だった。
城全体を揺らすほどの雷鳴。 直後、庭の方角から悲鳴が響いた。
「王妃様!!」
ユリウスが立ち上がる。
アルヴェインも反射的に後を追った。
豪雨の庭。
稲妻によって裂かれた大木が、轟音と共に倒れていく。
その先には―― 呆然と立ち尽くすアーヴェレッヘ。
魔術詠唱は、間に合わない。
アルヴェインの脳裏に焼き付いたのは、その瞬間だった。
ユリウスが迷いなく飛び出した。
王冠も、威厳も、何もかも捨てるように。
「――ッ!!」
アーヴェレッヘを突き飛ばし、 自らが倒木の下へ入る。
鈍い音。
大量の血。
崩れ落ちる父。
「……あなた?」
母の声が震える。
ユリウスは答えない。
頭部への直撃。
当たり所が悪すぎた。
――即死だった。
雨が降り続いていた。
アーヴェレッヘは夫の亡骸を抱き締めたまま、動かなかった。
泣き叫びもしない。
ただ、壊れたように呟き続ける。
「嫌……嫌よ……起きて……ねぇ、起きて……ユリウス……」
アルヴェインは初めて見た。
絶対に取り乱さない母が、 人間のように泣き崩れる姿を。
その日を境に――母は変わった。
いや、壊れたんだ。
王妃アーヴェレッヘは、王と国を支えた大魔術師だった。
慈悲深く、民を愛し、弱者へ手を差し伸べる女だった。
だが今の彼女の瞳に映るのは、ただ一つ。
“死者蘇生”
誰もが不可能だと知る神への冒涜。
それでも彼女は研究をやめなかった。
食事も取らず、 眠りも忘れ、 地下研究室へ籠り続ける。
机に積み上がる魔導書。
床一面の魔法陣。 増えていく失敗作と傷。
アルヴェインが扉を開いても、母は振り返らない。
「母上……」
返事はない。
「母上!」
ようやく、ゆっくり顔を向ける。
その目の下には深い隈。
頬は痩け、 かつての聖母の面影は消えかけていた。
それでも彼女は微笑む。
「アル……大丈夫よ」
壊れた笑顔だった。
「もう少しで……もう少しで父上を――」
その瞬間、アルヴェインは理解した。
母は父の死を受け入れていない。
受け入れられなかったのだ。
だから、 母は禁忌へ堕ちた。
父が死んでからしばらくして――
母の腹に、新しい命が宿っていることがわかった。
母は、その子をまるで壊れ物のように大切に抱いていた。
父が遺した最後の欠片。
忘れ形見として、涙を浮かべながら腹を撫でていた姿を、アルヴェインは今でも覚えている。
やがて生まれたのは、小さな男の子だった。
カルヴェス。
泣き虫で、身体が弱く、いつも母の腕の中にいた。
母はそんな弟を慈しみながらも、アルヴェインの頭も優しく撫でてくれた。
研究漬けだった母は、カルヴェスが生まれてから少し変わった。
夜通し魔術式を書き続けることも減り、二人の息子と食卓を囲む時間が増えた。
父が遺した宝物だと、何度も抱きしめてくれた。
あの頃は幸せだったのだと思う。
だが――
歳を重ねるごとに、アルヴェインは違和感を覚え始めた。
母が自分を見る目。
優しい。
確かに優しい。
けれど、その奥にある感情は、カルヴェスへ向けるものとは違っていた。
まるで、過去を見ているような目。
懐かしむような。
苦しむような。
喪失を抱えたまま微笑むような瞳。
アルヴェインは理解してしまった。
――自分を見る時、母は父を思い出しているのだと。
研究室で書物を閉じた母が、ふと小さく呟いた。
「……アルヴェインは、ユリウスによく似ているわ」
静かな声だった。
だが、その言葉は鋭い刃のように胸へ突き刺さった。
母は微笑んでいた。
けれど、その瞳には涙が滲んでいた。
アルヴェインは何も言えなかった。
嬉しいと思うべきなのか。
悲しむべきなのか。
わからなかった。
ただ一つだけ理解した。
自分の存在は、母に父の死を思い出させるのだと。
カルヴェスを見る時の母は、穏やかだった。
未来を見る母の顔だった。
だが、自分を見る時だけ――母は過去に囚われる。
その違いに気づいてしまった日から、アルヴェインは少しずつ母から距離を取るようになった。
代わりに、母の大切なカルヴェスを抱き上げる。
泣けばあやし、熱を出せば背負って医師の元へ走った。
「にぃさま……」
小さな弟は、いつも自分の後ろをついてきた。
その無垢な声を聞くたび、アルヴェインは静かに思う。
――せめて、お前だけは……母にとって、救いでいてくれ。
俺では駄目だったから。
だからカルヴェス。
ずっと母上のそばにいてやってくれ。




