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それから、カルヴェスの周囲には常に人の気配が付き纏うようになった。
廊下を歩けば騎士。
研究室へ向かえば侍従。
食事の時間ですら、視線が離れない。
監視だった。
名目上は「護衛」
だが、そんなものを信じるほどカルヴェスは愚かではない。
まるで罪人だ。
いや――実際、兄はもう自分を罪人として見ているのかもしれない。
王城の長い廊下を歩きながら、カルヴェスは小さく笑った。
「……牢獄と変わらないな」
その呟きに、後ろを歩く騎士達は反応しない。
命令されているのだろう。
――カルヴェスを刺激するな。
兄らしい。
感情より秩序。
優しさより管理。
昔は違った。
もっと笑う人だった。
もっと感情を見せる兄だった。
それなのに――あの日を境に、アルヴェインは変わった。
カルヴェスを見る目が変わったのだ。
まるで危険物でも見るような視線。
あるいは――理解不能な化け物を見るような目。
「禁術……か……」
カルヴェスは静かに目を伏せる。
血の魔術。
確かに危険だ。
術者を侵食し、生命を削り、死の領域へ踏み込む。
だが、それでも。
母を助けられる。
それだけで十分だった。
なのに、兄は理解しない。
理解しようともしない。
怒りが胸の奥で静かに燻る。
王城の最奥。
白薔薇の紋章が刻まれた扉の前で、カルヴェスは足を止めた。
護衛騎士が扉を開ける。
室内には、薬草の香りが満ちていた。
大きな窓。
白いカーテン。
静かな空気。
そして中央のベッドには、アーヴェレッヘが横たわっていた。
かつて誰よりも美しかった王妃は今や見る影もない。
頬は痩せ、唇は白い。
赤黒かった髪には灰色が混じり始めている。
何より――侵食。
初めは右手だけだった黒い紋様が、首筋まで浮かんでいた。
カルヴェスの胸が締め付けられる。
「……母上」
静かな声に、アーヴェレッヘはゆっくり目を開けた。
「……カルヴェス」
弱々しい笑みだった。
カルヴェスはベッド脇へ歩み寄ると、持ってきた花を花瓶へ飾った。
白い花。
母が好きだった花だ。
昔、父と庭園で眺めていたという。
その記憶が脳裏を過ぎる。
カルヴェスは何も言わず、母の手を握った。
生きている人の温度ではないほどに冷たい。
胸の奥に黒い感情が滲む。
兄が研究を止めなければ。
地下施設を封鎖しなければ。
今頃――母は助かっていたかもしれないのに。
カルヴェスは唇を噛み締める。
アーヴェレッヘは苦しそうに息を吐きながら、それでも穏やかに微笑んだ。
カルヴェスはすぐに目を伏せた。
そして母の手を両手で包み魔力を流し込む。
侵食を抑える術式。
痛みを緩和するための治癒魔法。
何度も何度も試した。
だが――止まらない。
血の魔術による侵食は、普通の治癒ではどうにもならなかった。
まるで呪いのようだった。
カルヴェスの額に汗が滲む。
それでも魔力を注ぎ続けた。
少しでも――母の苦痛を減らしたかった。
「……アルヴェインは、元気にしているかしら……?」
アーヴェレッヘが弱々しく微笑みながら尋ねた。
その声には、王妃ではなく、ただ息子を心配する母の響きがあった。
カルヴェスは一瞬だけ言葉に詰まる。
胸の奥が、鈍く軋んだ。
だが次の瞬間には、柔らかな笑みを作っていた。
「ああ、元気にしているよ。今はまだ国のことで忙しいと言っていたけれど……落ち着いたら一緒に来るから」
優しい嘘だった。
アーヴェレッヘは安心したように目を細める。
「そう……無理をしていないといいのだけれど……」
カルヴェスは微笑んだまま、母の手を握る。
しかし内心では、黒い感情が静かに渦巻いていた。
――無理?
無理をしているのは母の方だ。
命を削り、血を流し、侵食され苦しんでいる。
それなのに兄は何をしている?
国務。
政治。
会議。
そんなものを理由に、母から逃げているだけだ。
見舞いにすら来ない。
カルヴェスは視線を部屋の花瓶へ向けた。
白い花。
自分が替えたものだ。
いつ来ても同じ花だった。
つまり――アルヴェインは来ていない。
もし来ているなら、使用人達が花を替える。
部屋の空気も変わる。
だが何一つ変化がない。
この静かな部屋だけが、まるで時間が止まってしまっているかのように。
カルヴェスは唇を噛み締めた。
兄は母を見捨てたのだ。
あれほど愛されていたのに。
あれほど期待されていたのに。
王という立場を理由に。
冷徹で。
合理的で。
非情な王。
それが今のアルヴェインだった。
「カルヴェス?」
アーヴェレッヘの声に、はっと顔を上げる。
「どうしたの……?」
カルヴェスは慌てて微笑みを作った。
「……なんでもない」
嘘だった。
本当は怒りで胸が焼けそうだった。
母は今も兄を心配している。
それなのに兄は――見舞いにすら来ない。
カルヴェスは母の手をそっと撫でた。
細かつて自分達を抱き締めてくれた手とは思えないほど、弱々しかった。
「……母上」
「なあに?」
カルヴェスは少し迷い、そして静かに口を開く。
「もし……もし父上が戻ってきたら……母上は幸せだろうか?」
アーヴェレッヘの瞳が揺れた。
次の瞬間、彼女は泣きそうなほど優しく微笑んだ。
「ええ……もちろん……」
その笑顔を見た瞬間だった。
カルヴェスの中で、何かが決定的に壊れた。
――やはり、この研究は完成させなければならない。
たとえ兄に背こうとも。
たとえ禁術と呼ばれようとも。
母を救えるのは、自分だけなのだから。




