5a
アルヴェインは、苦渋の末に決断した。
カルヴェスを王城北棟――幽閉室へ移した。
そこは罪人を閉じ込める地下牢とは違う。
最低限の自由と生活は保証されている。
だが外部との接触は厳しく制限され、事実上の軟禁だった。
当然、カルヴェスは激しく反発した。
それでもアルヴェインは命令を撤回しなかった。
――禁術にだけは、近づけさせない。
それだけだった。
弟から自由を奪っている自覚はある。
憎まれていることも分かっている。
だが、それでも、カルヴェスが母と同じ末路を辿るくらいなら、 自分が悪人になった方が遥かにましだった。
カルヴェスを母アーヴェレッヘから遠ざけて以降、 アルヴェインは毎日、弟が通っていた時間に見舞いへ向かった。
静かな病室。
窓際に座る母は、 今日も虚ろな目で外を眺めている。
アルヴェインは扉の前で一度立ち止まり、 深く息を吐いた。
そして王の正装を纏ったまま、 穏やかな声を作る。
「――母上」
アーヴェレッヘの瞳がゆっくり動く。
だがそこに、 “アルヴェイン”を認識する色はない。
ある日など、 彼女は微笑みながらこう言った。
「おかえりなさい、ユリウス」
アルヴェインの指先が、僅かに震えた。
父。 先王ユリウス。
アーヴェレッヘはもう、息子の顔も分からない。
ただ過去だけを見ている。
それでもアルヴェインは否定しなかった。
「……ああ、戻った」
静かな返答。
その瞬間だけは、 王でも兄でもなく。
壊れた母の幻想を守る、 “ユリウス”であり続けた。
カルヴェスには見せられなかった。
母が、自分達をもう覚えていない姿を。
母を救うと足掻くたび、 弟の心が削れていく姿を。
だからアルヴェインは、 憎まれてでも引き離した。
たとえ弟に、 “母を奪った兄”として憎悪されようとも。
アルヴェインは、時折考えてしまうことがあった。
――母が死ねば。
カルヴェスは、 昔のように笑ってくれるのだろうか、と。
仲の良かったあの頃のように。
だが、母が壊れてから、 カルヴェスは笑わなくなった。
禁術に取り憑かれたように没頭し、 眠る時間すら削り、 “救う方法”だけを探し続けていた。
だからアルヴェインは願ってしまった。
終わればいい、と。
母が死ねば、 カルヴェスもようやく終われるのではないかと。
その願いが、 どれほど残酷か理解した上で――
アーヴェレッヘの容態は日に日に悪化していった。
アルヴェインには理由が分かっていた。
カルヴェスが母へ注いでいた魔力。
あれはただの治癒魔術ではない。
血の魔術だった。
己の生命を削り、 他者の侵食を遅らせる禁忌。
カルヴェスはずっと、 自分を燃やして母を延命させていたのだ。
そして今、 その供給が絶たれたことで、 アーヴェレッヘの侵食は一気に進行した。
肌は腐敗し、 骨は歪み、 指先は人ではない形へ変わっていく。
侍医達は皆、 口には出さなかった。
だが誰もが理解していた。
――もう長くはない。
それでもアルヴェインは、 最後まで母の元へ通い続けた。
王の正装を纏い、 静かに微笑み、 ユリウスとして。
「ユリウス……」
衰弱した母は、 最期まで彼を夫だと思っていた。
アルヴェインは否定しなかった。
否定できなかった。
真実を告げれば、 母はきっと壊れたまま死ぬ。
ならせめて、 愛した男に看取られる幻想くらい、 与えてやりたかった。
ある夜。
アーヴェレッヘは、 弱々しくアルヴェインの手を握り、 小さく微笑んだ。
「……愛しています」
アルヴェインは静かに目を伏せた。
「……私もです。母上……」
それだけを返した。
やがて、 母の呼吸は静かに止まった。
部屋には沈黙だけが残る。
アルヴェインは動かなかった。
泣き叫ぶことも、 縋ることもなく。
ただ、 亡骸となった母を見下ろしていた。
――なぜだろう。
涙は、出なかった。
悲しくないわけではない。
苦しくないわけでもない。
むしろ胸の奥は、 ずっと昔に引き裂かれたままだ。
それなのに――
アーヴェレッヘを見送ったあと、アルヴェインは 喪服に着替えることすらしなかった。
王装のまま、 静かに監視区画へ向かう。
長い廊下を歩きながら、 何度も考えていた。
――どう伝えればいい。
どう言えば、 カルヴェスは傷つかずに済むのか。
どう説明すれば、 納得してくれるのか。
そんな答え、 あるはずもないのに。
重い扉の前で、 アルヴェインは一度足を止めた。
中から異常な魔力の揺らぎが漏れている。
護衛達の顔色も悪かった。
「……いつからだ」
「先程からです。急に魔力が暴走し始め――」
最後まで聞かず、 アルヴェインは扉の前に立った。
室内は酷い有様だった。
壁には爪痕。
床には割れた器。
空気中には暴走した魔力が霧のように渦巻いている。
カルヴェスがいた。
酷くやつれた姿だった。
長く閉じ込められていたせいだけではない。
頬は痩け、 唇は乾き、 指先には血の跡が滲んでいる。
何より、 その瞳。
かつて強い光を宿していた金の瞳は、 今や黒く濁りきっていた。
アルヴェインは胸の奥が軋むのを感じた。
抱きしめてやりたかった。
母を失った兄弟として、 共に悲しみたかった。
「……終わった」
そう一言だけでも告げて、 弟を安心させたかった。
だが、カルヴェスが向けてきた視線は、 あまりにも冷たかった。
憎悪。
不信。
そして、 絶望。
全部がそこにあった。
「……アルヴェイン……」
掠れた呼び声は"兄上"ではない。
その呼び方だけで、 何かが決定的に壊れたのだと分かった。
アルヴェインは、 弟の光を失った瞳を静かに見つめ返した。
「お前が……っ!!」
カルヴェスの絶叫と同時に、 凄まじい魔力が吹き荒れた。
――バキバキバキィッ!!
監視区画の窓硝子が一斉に砕け散る。
凍気が廊下を侵食し、 白い霜が石壁を覆っていく。
護衛達が息を呑んだ。
「母上が死んだ直後に……王冠を被ったのか!!」
カルヴェスの瞳は狂気のように揺れていた。
「そんなに玉座が欲しかったか!?」
その叫びを聞いた瞬間、 アルヴェインは理解してしまった。
――もう戻れない。
弟との間に走った亀裂は、 決定的なものになった。
カルヴェスはもう、 兄としての自分を見ていない。
そこにいるのは、 母を奪った“王”だけだ。
そして、弟の心は、 完全に闇へ沈んだ。
アルヴェインは静かに目を伏せ、 低く呟く。
「……堕ちたな、愚弟」
その言葉に、 カルヴェスの魔力がさらに膨れ上がる。
獣のような苛立ち。
殺意に近い激情。
空気そのものが震えていた。
だがアルヴェインは、 感情を押し殺したまま告げる。
「王妃アーヴェレッヘの葬儀だが――お前は参列を禁ずる」
カルヴェスの目が見開かれた。
「……母上に……別れも……母上に別れの言葉も言わせてもらえないのか!!」
血を吐くような悲鳴だった。
アルヴェインの胸が軋む。
本当は違う。
見せたくないだけだ。
腐敗し、 歪み、 人の形すら失いかけた母の亡骸を。
カルヴェスの中のアーヴェレッヘは、 優しく微笑む母のままでいてほしかった。
だから、だからこそ、 ここで終わらせなければならなかった。
「そうだ」
アルヴェインは、 あえて冷酷に言い切った。
「貴様ァッ!!」
その瞬間、カルヴェスの魔力が爆発する。
床が軋み、 凍気が槍のように走った。
だが次の瞬間には、 アルヴェインがカルヴェスを拘束していた。
押さえ込まれたカルヴェスが、 獣のように暴れる。
「離せ! 外道が!! 母上を殺したくせに!!」
その言葉が胸を抉る。
だがそれ以上に、 アルヴェインは別のことに衝撃を受けていた。
――軽い。
拘束した腕が、 信じられないほど細かった。
骨ばった感触。
以前なら容易く振り払われていたはずの力を、 今のカルヴェスは片腕すら返せない。
禁術。
監禁。
衰弱。
睡眠不足。
全部が、 弟を削り取っていた。
アルヴェインの瞳が、 僅かに揺れる。
――こんなになるまで。
お前は、 どれだけ自分を削った。
だがその感情を押し殺し、 アルヴェインは静かに手を離し、ゆっくり立ち上がる。
そして振り返らないまま命じた。
「葬儀が終わるまで地下監視牢へ移送しろ」
騎士達が動く。
カルヴェスは床へ爪を立て、 叫んだ。
「兄上ぇぇぇぇぇぇッ!!」
その声は、 かつて幼い弟が自分を呼んだ声と同じだった。
だからこそ、 アルヴェインは振り返れなかった。
今あの目を見れば、 きっと王ではいられなくなる。
弟の冷たい憎悪に、 耐えられる自信がなかった。
やがて絶叫は遠ざかり、 廊下には静寂だけが残る。
アルヴェインは誰もいなくなった廊下で、 ゆっくり拳を握り締めた。
血が滲むほど強く。
それでも、 涙だけは最後まで零れなかった。
その後――
王妃アーヴェレッヘの葬儀は、 王都全土を巻き込むほど盛大に執り行われた。
まるで、 この国がまだ幸福だった時代を、 必死に弔うように。
送り出す。
母が父と再会できるように――




