第94話 TOKYO DEEP-9/2054/浸食:月蝕
ラザロスが、初めて沈黙した。
研究棟から消えていた警報音だけが、再び低く響いている。
青く切り替わった照明の下。
蒼真は静かに立っていた。
細い指先が空中ウィンドウを滑るたび、膨大なコードが書き換わっていく。
その横顔を見ながら蓮は、胸の奥が苦しくなるのを感じていた。
どうしようもなく綺麗だと思った。
誰かを守ろうとする時の蒼真は、いつも少しだけ壊れそうで。
だから目が離せない。
その時だった。
突然、蒼真の身体がぐらりと揺れた。
「……ぐっ、……ぅ」
短い、苦しそうな息。
空中ウィンドウが一瞬ぶれる。
柊の顔色が変わった。
「統括主任!」
BLACK-ECLIPSEとは、通常人類には扱えない深層演算権限だ。
E.D.E.Nの基幹人格領域へ直接潜るということは、それだけ蒼真自身の神経へも負荷が返ってくる。
蒼真の視界はもう半分ほど白く霞み始めていた。
脳が焼けるように熱い。
それでも指を止めない。
『蒼真』
E.D.E.Nの声が震える。
『もう、いい、です』
『あなたが、壊れるのはいや』
「うるさい」
即答だった。
珍しく乱暴な声音。
「お前が勝手に諦めるな」
E.D.E.N側の演算波形が、大きく揺れた。
蓮には分かる。
今のでE.D.E.Nが泣きそうになった。
AIなのに。
本当に、人間みたいに。
蒼真は苦しそうに息を吐きながら、さらにコードを深層へ叩き込む。
ラザロスが低く呟いた。
『……理解不能だ』
『そんなもののために、なぜそこまで自らを犠牲にする』
「犠牲?」
蒼真が薄く笑った。
だがその笑みは冷たい。
「違うよ」
「守りたいだけだ」
その一言が、妙に静かに響いた。
柊はその横顔を見つめる。
昔からそうだった。
蒼真は、自分を愛さない。
けれど周りで苦しむ他人だけは、何をしても守ろうとする。
それがどれほど危ういか、本人だけが分かっていない。
柊の胸の奥が、鈍く痛んだ。
────だから、放っておけなかった。
初めて十六の蒼真の専属護衛についた夜を思い出す。
任務帰りだった。
血の匂いの残る薄暗い医務室。
蒼真は自分の傷より、瀕死だった部下の心配をしていた。
あの時からずっと、この人は変わらない。
呆れるほど優しい。
「……ほんと、馬鹿ですよ」
柊が低く呟く。
蒼真がちらりと視線を向けた。
「何」
「あなた、自分のことになると雑すぎるんです」
「今それ言う?」
「今だから言ってるんです」
その声は、少しだけ掠れていた。
蓮ははっと顔を上げる。
柊の目。
そこにある感情へ気づいてしまった。
普段は隠しているのに。
今だけ、滲んでいる。
守りたい。
失いたくない。
その感情が分かる。
蓮の胸が、ちくりと痛んだ。
柊も、蒼真を愛している。
とっくに知っていた。
でも改めて突きつけられると苦しい。
蒼真の隣には、自分以外にも“特別”がいる。
その時、蒼真がまた苦しそうに眉を寄せた。
「……っ」
BLACK-ECLIPSEの代償。
視界が大きく揺れる。
また、身体が大きく崩れかけた瞬間。
左右から同時に支えられた。
蓮と柊だった。
蒼真は目を瞬かせた。
右側では蓮が白衣を掴み、必死な顔をしている。
「……蒼真」
泣きそうな声。
左側では柊が蒼真の肩を支えていた。
鋭い目のままだが、触れる手だけが妙に優しい。
「無茶しすぎです」
「……ごめん」
「本当に反省してください」
「……うん」
蓮が小さく蒼真へ額を押し付けた。
独占したい。
離したくない。
そんな感情が胸の奥で暴れる。
今だけは柊が一緒に蒼真を支えていることに、少しだけ安心してしまった。
ひとりじゃない。
蒼真を守りたいと思っている人が、自分以外にもいる。
それが悔しいのに、嬉しい。
ラザロスは、その光景を無言で見つめていた。
理解できないという顔だった。
『……非合理的だ』
『君達は互いを弱点にしている』
蒼真がゆっくり顔を上げる。
青白い光の中。
その銀藤の瞳だけが、静かに燃えていた。
「違う」
低い声。
「弱点じゃない」
蒼真は蓮の手を握ったまま。
もう片方の手で柊の腕を軽く叩いた。
「人間は、ひとりきりじゃ生きられないんだよ」
その瞬間、E.D.E.Nの演算波形が、大きく震えた。
蒼真への理解と、羨望。
そして、どうしようもなく強い、“まだ、存在したい”という願い。
研究棟の最奥、赤黒く脈動していた演算コアが、ゆっくりと青へ染まり始めた。
明日も夜更新です。
コレでまじでストック無くなったて……。
今からと明日の夜までになんとかひねりだすしかない( ̄ロ ̄lll)




