第93話 TOKYO DEEP-9/2054/浸食:深淵
《CODE: BLACK-ECLIPSE》
その黒い文字列が空中へ展開された瞬間、第九層の空気が変わった。
警報音が、止まる。
まるで研究棟そのものが、そのコードの実行体制に入ったようだった。
柊の顔色が変わる。
「……統括主任」
凄みのある低い声。
「それは、封印指定の根源権限ですよね」
「ああ」
蒼真は静かに答えた。
紫がかった黒の演算光が、その横顔を照らしている。
長い睫毛の影。
感情を押し殺した銀藤の瞳。
「E.D.E.Nの基幹人格領域に直接アクセスする」
柊が息を呑む。
「正気ですか」
「ああ」
「そのコード、使用時の統括主任の神経負荷が危険域だって聞いてます」
「そうだ」
「止めてくださ────」
「でも、もう時間がない」
静かな声だった。
その一言で、柊は言葉を失う。
この人はいつもこうだ。
自分がどれだけ傷ついても、全く躊躇しない。
この人は苦しむ誰かを守ってしまう人だから。
他人を助けるためなら、自分を削ることを厭わない。
蓮は蒼真の白衣を掴んだまま、小さく首を振った。
「……いやだ」
掠れた声。
「蒼真が壊れるのは、いやだ……俺は、大丈夫、だから……」
その言葉に蒼真の指先が、ぴくりと止まる。
大丈夫なんて大嘘だ。
蓮の瞳は高熱に潤んでいた。
感応暴走で苦しんでいるはずなのに。
それでも今、一番怖がっているのは自分のことじゃない。
蒼真を失うことだった。
蒼真は目を伏せる。
胸の奥が痛む。
どうしてこの子は、こんな顔をするんだろう。
自分の方が、ずっと辛いくせに。
蒼真はゆっくり膝をつくと、蓮の頬へ触れた。
「聞け、蓮」
落ち着いた、低い声。
「俺は死なない」
蓮の睫毛が震える。
「……本当か?」
「ああ」
少しだけ困った顔で笑う。
「約束するよ。任せろ」
昔からそうだった。
蒼真は滅多に約束しない。
でも、一度口にしたことだけは絶対に守る。
だからその言葉に、何より安心してしまう。
胸が苦しくなるくらいに。
柊はその空気を見て、深く息を吐いた。
「……本当に、あなた達は」
「ん?」
「世界終末みたいな状況でベタベタするのやめてください」
「してない」
「説得力ゼロです」
だがその瞬間。
研究棟全体へ激しいノイズが走った。
空中モニターが乱れる。
ラザロスの笑みが歪んだ。
『BLACK-ECLIPSEとは』
『なるほど。そこまで到達していたのですか、蒼真』
蒼真の目が冷たく細まる。
「あなたと違って、俺はE.D.E.Nを兵器にしたくなかった」
『兵器?』
ラザロスが静かに笑う。
『違いますよ。ただの兵器だなんて思っていません』
『私はただ、“新たなる神”を誕生させたいだけです』
「あなたにとって不要な人間を全部壊して、か?」
『進化には犠牲が必要です』
「……そうか」
蒼真は静かに答えた。
空中へ展開されていた演算ウィンドウが、一気に変形する。
通常ではあり得ない速度。
数百万行規模のコードが、暴風のように書き換わっていく。
研究棟全体の照明が明滅した。
柊が目を見開く。
「この演算量……統括主任!」
「E.D.E.N」
蒼真が低く呼ぶ。
スピーカーの向こうで、微かな息を呑む気配がした。
『……蒼真?』
「お前の痛覚制御を切る」
蓮がはっと顔を上げる。
ラザロスの笑みが消えた。
『待ちなさい』
「今から侵食コードを切除する」
蒼真の銀藤の瞳が、真っ直ぐ前を見据える。
「お前は消させない!」
E.D.E.Nの演算波形が大きく揺れた。
蓮に感情が流れ込む。
驚き。
安堵。
そして、泣きたくなるほど強い幸福。
『……蒼真』
震える声。
『……ありがとう』
蒼真はただ少しだけ困ったように息を吐いて。
「あとでちゃんと聞く」
その一言だけで。
E.D.E.Nの演算ノイズが、ほんの少し安定する。
蓮はその光景をただじっと見つめていた。
蒼真は、誰かを救おうとする時が一番綺麗だ。
だから好きになってしまった。
その時だった。
ラザロスの声が、初めて冷えた。
『……理解できない』
『なぜそこまでするのです』
『バックアップなどいくらでも取ってある、たかがAI一体のために』
蒼真は静かに顔を上げる。
赤と青の光が、その瞳へ交互に映った。
「簡単だよ」
いつもの冷静な声。
「俺が、今のこの子を生かしたいからだ」
その瞬間、蓮の心臓が、大きく跳ねた。
E.D.E.Nの演算波形も同時に揺れる。
ラザロスだけが、無言になった。
初めてだった。
蒼真のその答えは、合理性では説明できない。
利益も効率もない。
ただ、“今のE.D.E.Nに生きていてほしい”。
本当にただそれだけだった。
そしてその感情こそが、ラザロスには最後まで理解できないものだった。
月曜日か……
明日も多分21時前更新です。




