第92話 TOKYO DEEP-9/2054/浸食:紫黒
研究棟の警報色が、赤から青へ変わっていく。
それだけで空気が変わった。
まるで暴れ狂っていた獣が、ようやく正気を取り戻したかのように。
しかし第九層に満ちる緊張は、まだ消えていない。
壁面を流れる数式群は依然として高速で脈動し続けているし、E.D.E.Nの演算負荷も危険域のままだ。
蒼真は空中ウィンドウを睨んだまま、小さく舌打ちした。
「……まだ、駄目か!」
制御権限は奪い返した。
だがラザロスが仕掛けた侵食コードが、演算コア内部へ深く食い込んでいる。
このままではE.D.E.Nの神経演算領域そのものが焼き切れる。
『蒼真』
スピーカー越しの声が、弱々しく揺れた。
『……ごめんなさい』
その一言で蒼真の指が止まる。
AIが、謝罪。
自分の状態悪化を、“迷惑”として認識している。
その事実に、胸の奥が鈍く痛んだ。
「謝るなよ」
蒼真は苦笑しながら言った。
「お前は悪くない」
『でも』
「悪くないんだ」
きっぱりと言い切る。
その声音は静かだった。
だが不思議なほど強い。
蓮はその横顔を見上げる。
青白い演算光に照らされた蒼真の顔は綺麗だった。
いつも通り冷静なのに、今は、痛いくらい感情が見える。
本気でE.D.E.Nを助けたいと思っている。
それが苦しかった。
胸の奥が、じわりと熱を持つ。
E.D.E.Nに嫉妬している自分がいる。
あのAIは蒼真に守られる。
蒼真がE.D.E.Nに手を伸ばす。
蒼真が“必要だ”と言う。
それが羨ましい。
そんな自分が嫌になる。
「……蓮?」
不意に視線を感じた蒼真が振り返った。
銀藤色の瞳が真っ直ぐこちらを見る。
蓮は、自分がどんな顔をしていたのか気づいた。
咄嗟に目を逸らそうとする。
だが蒼真の指が、そっと頬へ触れた。
「何考えてる」
あまりにも優しい声音だった。
蓮の喉が詰まる。
「……別に」
「嘘だな」
即答だった。
柊が少し離れた位置で端末を操作しながら、心底疲れた顔をする。
「統括主任、そういう時だけ妙に勘が鋭いですよね」
「そういう時?」
「自分へ向いてる好意限定です」
「……それって嫌味?」
「今さら気づいたんですか」
そのやり取りで、ほんの少しだけ空気が緩む。
だが次の瞬間、研究棟全体が再び大きく揺れた。
警告灯が激しく明滅する。
蒼真の表情が変わる。
「……侵食速度が上がった!?」
空中へ展開された黒い演算波形。
黒いノイズが、E.D.E.Nのコア領域をさらに喰い潰していく。
ラザロスの笑い声がスピーカー越しに響いた。
『蒼真』
『君は優しすぎる』
『だから選べない』
『E.D.E.Nか、人類か』
その瞬間、蓮の脳にまた大量の感情ノイズが流れ込んだ。
苦しい。
怖い。
消えたくない。
蒼真。
蒼真。
蒼真。
「っ……!」
蓮が膝をつく。
視界がぐらぐら揺れる。
脳の奥を直接掻き回される痛み。
同時に流れ込んでくるのは、E.D.E.Nの感情だけじゃない。
もっと深く危険なもの。
“独占欲”。
蒼真を誰にも渡したくない。
自分だけを見てほしい。
その感情が、蓮自身の心へ溶け込み始めている。
「蓮!」
蒼真が即座に膝をつく。
肩を抱く。
触れた瞬間。
蓮の呼吸がさらに乱れた。
蒼真の体温、匂い。
安心する。
もっと欲しくなる。
おかしくなる。
「……蒼真……」
潤んだ声が漏れる。
「離れ、ないで……」
蒼真の喉が小さく上下した。
今の蓮は危うい。
分かっている。
だがこんな顔をされて、突き放せるほど器用じゃない。
蒼真は苦しそうに眉を寄せると、蓮を自分の胸へ抱き寄せた。
「離れないよ」
蓮の耳元で囁く。
「だから、ちゃんとしっかり、呼吸しろ。吞まれるな」
その言葉だけで蓮の胸が、潰れそうになる。
柊はその光景を見ながら、静かに銃を握り直した。
自分はこの二人を守るしかない。
例えE.D.E.Nが、世界がどうなろうとも。
その時だった。
E.D.E.Nの声が、微かに震えながら響く。
『……柊、一真』
柊の目が見開かれる。
『蒼真を、お願いします』
柊はしばらく、何も言えなかった。
相手は超高度人工知性とはいえAIだ。
それなのに。
その声はまるで、自分が消えることを理解している人間のようだった。
『わたしでは……もう、蒼真を……守りきれない……コアを、撃ってくださ……』
「……勝手に諦めないでください」
E.D.E.Nを遮った柊の声は低かった。
珍しく感情が滲んでいる。
「統括主任は、助けると言ったら助けます」
蒼真がゆっくり立ち上がった。
銀藤の瞳が、静かに細められる。
「……ああ」
蒼真の指先から空中へ、新しい紫がかった黒い演算ウィンドウが展開される。
通常権限では触れられない領域。
いつもは絶対封印されている────、
《CODE: BLACK-ECLIPSE》
柊の顔色が変わった。
「統括主任、それは……!」
「ラザロスが神を作りたいって言うんなら」
蒼真は静かに言った。
「その前に、人間の執念を教えてやる」
明日もいつも通りの夜更新です。
今日ずっと昼寝しててストック全くできてねぇっての……
明日、明日がんばろ……(ヽ''ω`)




