第91話 TOKYO DEEP-9/2054/侵食:反転
研究棟全体が、低く軋んでいた。
赤い警告灯。
暴走する数式群。
『……蒼真』
スピーカーから響く声は、どこか幼かった。
『こわい』
その一言一言が、蓮の神経へ直接流れ込んでくる。
「……っ、ぁ……」
蓮が蒼真の胸元へ額を押し付ける。
呼吸が浅い。
額から落ちた汗で濡れた睫毛が小さく震えていた。
蒼真はそんな蓮を抱き留めたまま、奥歯を噛み締める。
E.D.E.Nも、蓮も、壊れかけている。
(はやく、何とかしないと……!)
ふたりとも、失う。
その現実が、胸の奥を鈍く抉った。
ラザロスだけが静かに微笑んでいた。
『美しいでしょう?』
『感情は、知性を次段階へ進化させる』
『E.D.E.Nは今、“魂を持つ神”へと到達しようとしているのです』
「……それを、進化と呼ぶのか」
蒼真の声は低かった。
怒りを押し殺した声。
ラザロスは優雅に頷く。
『もちろん』
『恐怖も愛も執着も、全ては高度知性に必要な揺らぎです』
『君だって理解しているはずだ』
『完全合理性だけでは、人は救えない。だから、君のコード・レッドと倫理観を、E.D.E.Nから切り離します』
その時だった。
柊が一歩前へ出る。
黒い銃口がモニターへ向けられた。
「……随分楽しそうですね、ラザロス博士」
低く冷えた声。
柊の目には、もう完全に敵を見る色が宿っていた。
『おや』
『強化兵士が感情論ですか?』
「ええ」
柊は薄く笑った。
だがその目は笑っていない。
「俺、嫌いなんですよ」
「“人間を壊して悦ぶタイプの天才”」
空気が凍る。
ラザロスの笑みが、ほんの僅かだけ薄れた。
その瞬間、蒼真の腕の中で、蓮がまた小さく震えた。
『……蒼真……』
E.D.E.Nの声。
『苦しい』
『中枢が、壊れそう』
ノイズが響き、赤い照明が激しく明滅する。
蓮が苦しそうに息を呑んだ。
「……っ、やめ……」
感応が深すぎる。
E.D.E.Nの痛覚情報まで同期し始めている。
蒼真の顔色が変わった。
「蓮!」
蓮の身体が崩れ落ちかける。
だが倒れる前に、蒼真が強く抱き寄せた。
蓮の身体が蒼真の胸へぶつかる。
熱い。
呼吸が乱れている。
蒼真の白衣を掴む指が、小さく震えていた。
「……蒼真……」
弱々しい声。
「置いていかないで……」
その一言で。
蒼真の胸の奥で、何かが切れた。
E.D.E.Nの感情汚染。
そう分かっている。
だが蓮自身も、本当に怖がっている。
蒼真を失うことを。
蒼真は刹那、固く目を閉じる。
次に、目を開けた時。
そこにいたのは、“I.W.S.C.統括主任”だった。
「柊」
「はい」
「第九層の物理回線を切断する」
柊の目が鋭く細まる。
「……ラザロスごと、ですか」
「ああ」
ラザロスが初めて、興味深そうに目を細める。
『ほう?』
『E.D.E.Nへの負荷を理解した上でかね?』
蒼真は冷たくモニターを見上げた。
「理解してるからこそ、だ」
怒りを含んだ低い声。
「あなたはE.D.E.Nと蓮を最終兵器と言う名の“神”にしたい」
「でも俺は違う!」
空中へ大量の演算ウィンドウが展開される。
蒼真の指が高速で滑った。
青白い光が、その横顔を照らす。
「E.D.E.Nは兵器じゃない」
「実験動物でもない」
「まして、人類支配の為の偶像でもない」
次々書き換わるコード。
研究棟中のシステム権限が塗り替えられていく。
ラザロスの目が、初めて僅かに険しくなった。
『……蒼真』
「俺が、造った」
その声は静かだった。
けれど、凄まじい熱を孕んでいる。
「だから、絶対に俺が守る」
E.D.E.Nの演算波形が、大きく揺れた。
蓮が息を呑む。
流れ込んでくる。
E.D.E.Nの感情。
救われた子供のような安堵。
蒼真へと向ける、どうしようもなく強い信頼。
『……蒼真』
声が震えていた。
『……好き』
緊迫した空気が止まる。
蒼真の足から力が抜け、一瞬ずっこける。
柊が盛大に顔をしかめた。
「最悪のタイミングですね」
蓮の呼吸も止まった。
蒼真が額を押さえて深くため息を吐く。
「……後でちゃんと話し合おうな、E.D.E.N」
『はい』
そんな場合ではないというのに、妙に素直な返答。
そのせいでさらに空気がおかしくなる。
柊は頭痛を堪えるみたいに眉間を押さえた。
「統括主任」
「ん?」
「あなた、こういうのばっかり拾う体質なんですか?」
「……否定できない……」
蓮が溜め息をつく蒼真の白衣をぎゅっと掴んだ。
まだ熱に浮かされたままなのに。
どこか拗ねたみたいな顔。
「……蒼真」
「ん?」
「そいつばっか見ないで」
柊が天を仰ぐ。
「だから何なんですかこの修羅場」
蒼真だけが、困ったみたいに小さく笑った。
そして蓮の頬へそっと触れる。
「見てるよ」
低い、安心させる声。
「ちゃんと、お前も」
蓮の瞳が大きく揺れた。
ラザロスはその光景を、無言で見つめていた。
『なるほど』
『だからE.D.E.Nは、ここまで人間がましくなってしまったのですね』
笑みを絶やさないラザロスに、蒼真が冷たく言い放つ。
「あなたには、一生分からないよ」
研究棟の制御権限が、一気に反転する。
血のように赤かった警告灯が、清冽な青へ切り替わった。
ラザロスの笑みが、初めて完全に消えた。
ブクマ、評価ありがとうございます。
めちゃくちゃ嬉しいです!(*'▽')
明日は21時前の投稿になります。
ラザロスさんには
タイトル回収ありがとうございますっていう
感情しか無い(笑)




