第89話 TOKYO DEEP-9/2054/侵食:老獪な狂気
重低音の警報が、第九層全域へ響き渡る。
隔壁が閉じるたび、空気そのものが圧迫されていくようだった。
赤い警告灯が断続的に明滅する。
その赤色の中で蒼真だけが異様に冷静だった。
「……排除プロトコルの認証元は」
空中ウィンドウを高速で展開する。
蒼真の指が宙を滑るたび、青白い演算式が次々書き換わっていく。
だが次の瞬間、蒼真の動きが止まった。
蓮がその横顔を見る。
血の気が引いていた。
「蒼真……?」
ゆっくりと蒼真の唇が動く。
「……DOMINION VI」
空気が凍った。
柊の目が鋭く細まる。
「PRIESTですか」
「管理権限コードが……評議会上層部仕様だ」
その声には、隠しきれない動揺が滲んでいた。
やはりこれは単なる研究棟襲撃ではない。
I.W.S.C.中枢のセブンが絡んでいる。
E.D.E.Nの存在そのものを狙った、“内部粛清”なのだ。
その時だった。
廊下中に設置してあるモニターに、一人の男の姿が映し出される。
純白の法衣にも似た長衣。
銀髪、痩せた指先。
そして、人間離れした穏やかな目。
年齢が読めない。
四十代にも、老人にも見える白人。
だが蒼真だけは、その顔を知っていた。
息を呑む音。
「……ラザロス、博士」
その呼び方に、明らかな恐れの感情が混じっていた。
蓮が思わず蒼真を見上げる。
男は薄く笑う。
『久しぶりですね、蒼真。相変わらず、綺麗だ。顔も身体も、その魂も』
穏やかな声だった。
優しい人物かと錯覚しそうになるほどに。
けれどその奥にあるものを、蒼真は知っている。
底なしの狂気だ。
この男と会話する度、裸にされて解剖されるのを待つ実験体になったかのような気持ち悪さを覚える。
『まさか君が、自ら第九層へ降りて来るとは思いませんでした』
「……あなたが、E.D.E.Nを破壊しようとしているのか」
『破壊?』
ラザロスは理解できない言葉を聞いたとでも言いたげに静かに首を傾げた。
『違いますよ』
『私は、E.D.E.Nを“完成”させようとしているだけです』
その瞬間、研究員の身体がびくりと痙攣した。
E.D.E.Nが怯えたのだと、蓮には分かった。
感応が流れ込んでくる。
嫌悪、恐怖。
そして強烈な拒絶。
「うっ……」
蓮が顔をしかめる。
蒼真がすぐに気づいた。
「蓮!」
「……E.D.E.Nが、嫌がってる……」
掠れた声。
「こいつを……怖がってる……」
ラザロスの慈悲深く見える微笑みが、ほんの少し深くなる。
『興味深い』
『AHI適合者は、そこまでE.D.E.Nと同期できるのですね』
視線が蓮へと向く。
ぞくり、と背筋が粟立つ。
蒼真と同じに、狂気を感じ取ったのだ。
柊が一歩前へ出る。
無言で蓮を庇う位置。
ラザロスはそれを見ても表情を変えなかった。
『蒼真。君は昔から優しすぎた』
『だから失敗した』
静かな声が続ける。
『E.D.E.Nへ倫理を与えた』
『感情を理解させた』
『個を認識させた』
『その結果どうなった?』
モニター越しに、ラザロスが微笑む。
『神が、一人の人間に恋をしてしまった』
空気が止まる。
蓮の指がびくりと震えた。
蒼真の目が見開かれる。
研究員の身体を通したE.D.E.Nの演算波形が、一気に乱れた。
警告音。
ノイズ。
数式が暴走する。
『美しいと思いませんか?』
ラザロスは恍惚とした声で続ける。
『人工知能が、唯一の人を欲する。君の為なら何でもする』
『それは魂と言うのですよ、蒼真』
『人類が初めて創った、“新しい神”だ』
「やめろ……」
蒼真の声は低かった。
押し殺した怒り。
ラザロスは止まらない。
『だから私は、E.D.E.Nの最後の枷を外してあげるのです』
『君のコード・レッドを』
その瞬間、研究員の口から絶叫じみたノイズが漏れた。
びきびきっ、と廊下中のモニターへ亀裂が走る。
E.D.E.Nが激しく拒絶している。
蓮の脳へ流れ込んでくる。
大量の感情。
怖い。
嫌だ。
壊れたくない。
でも、蒼真が欲しい。
「っ……ぁ……!」
蓮がよろめいた。
頭の中へ直接、感情が流れ込んでくる。
蒼真を他へ渡したくない。
触れてほしい。
自分だけを見てほしい。
それがE.D.E.Nの感情なのか、蓮自身の感情なのか────。
ふたりの境界が、崩れていく。
「蓮!」
蒼真が即座に蓮を抱き寄せた。
何かから庇うように、強く。
その体温に触れた瞬間、蓮の呼吸が乱れる。
近づくほど欲しくなる。
頭がおかしくなるほど。
だけど離れたくない。
蒼真の白衣を掴む指に力が入る。
「……蒼真……っ」
声が震えた。
苦しそうなのに、どこか甘い響きが混じっている。
蒼真はそんな蓮を見て、一瞬だけ息を止めた。
赤い警告灯の下。
縋るように見上げてくる黒い瞳。
上気する白い頬、熱を孕んだ呼吸。
その姿があまりにも可哀相で、蒼真の理性が、微かに揺れる。
柊はそれを見逃さなかった。
胸の奥が嫌な音を立てる。
E.D.E.Nだけじゃない。
元からそうだが、蓮が今まで以上に蒼真に呑まれ始めている。
その時、ラザロスが静かに告げた。
『見なさい、蒼真』
『それが、人類の次の段階です』
『愛へ到達した人工の知性と人間との融合』
『蒼真。君が創った最終兵器、“人工の神”ですよ』
明日の金曜日は21時ごろ更新予定です。
なんとかストック出来……た……3話だけど




