第88話 TOKYO DEEP-9/2054/侵食:歪み
白衣の男は、ぎこちなく首を傾けたまま動かない。
けれど、その目だけが異様だった。
焦点が合っていない。
死んだ魚のように濁った瞳。
しかしそこには、確かに“何か”がいた。
「────蒼真」
もう一度、研究員の口が動く。
声帯を無理やり使って発声しているからか、不自然な音。
柊の銃口がぴたりと眉間へ向けられる。
「所属と識別番号を言え」
低く鋭い声。
だが研究員は答えない。
代わりにかくん、と頭が逆方向へ折れた。
ボキリと骨が鳴る。
蓮が息を呑んだ。
「……っ」
その瞬間。
研究員の口元が、ゆっくり吊り上がる。
人間の笑い方ではなかった。
筋肉の動きを模倣しただけの、不完全な表情。
ぞわり、と悪寒が走る。
「────やっと、来てくれた」
その不自然な声だけが、異様なほど安堵していた。
蒼真の瞳が揺れる。
「E.D.E.Nなの、か……?」
研究員の身体が一歩前へ出る。
足取りは不安定だ。
まるで身体の操作に慣れていない。
その姿を見た瞬間、蒼真の顔色が変わった。
「……お前、人間の神経に侵入してるのか!?」
鋭い問いかけ。
その声音には、隠しきれない衝撃が滲んでいた。
E.D.E.Nは軍事統括AIでもある。
都市インフラも兵器制御も掌握できる。
だが、人間の脳神経へ直接アクセスする機能だけは、蒼真自身が絶対封印していた。
侵してはいけない領域だったからだ。
研究員の口が、ゆっくりと動く。
「────違います」
ノイズが混じる。
喉が避けたような雑音。
「────この男が、自ら私に接触し、接続しました」
「……何?」
「────私を、“初期化”しようとしていたから」
空気が凍る。
蒼真が目を見開いた。
それはつまり────。
E.D.E.Nという人格の死だ。
蓮の背筋が冷える。
あれほど膨大な演算知性が、“死”を理解してしまっている。
その事実が恐ろしかった。
研究員の身体が小さく震える。
限界なのだ。
何の適正もない生身の脳でE.D.E.Nの情報量を保持できるはずがない。
皮膚の下で血管が黒く浮き始めていた。
柊が舌打ちする。
「統括主任、下がってください。危険です」
「いや……待て」
蒼真は研究員を見つめたまま動かない。
その視線は鋭いのに、どこか痛々しかった。
「もう一度、お前の本体にこいつを接触させれば元に戻れるはずだ」
自分が造ったものを絶対に見捨てられない表情だった。
蓮は知っている。
蒼真は一見冷たく合理的に見えて、根本では誰より情が深い。
だから傷つく。
誰かの痛みを、自分の責任として抱え込む。
研究員がふらりと倒れかけた。
反射的に蒼真が駆け寄る。
「統括主任!」
「蒼真!」
二人の声。
だが蒼真は止まらない。
白衣の肩を支えた瞬間。
研究員の指が、ぎちり、と蒼真の腕を掴んだ。
「……っ」
強すぎる、人間離れした握力。
柊が即座に前へ出る。
「離れろ!」
銃口が上がる。
だがその瞬間。
研究員の濁った眼から、ぼろり、と涙が零れ落ちた。
場が静まり返る。
「────こわかった」
掠れた声。
「────あなたの造った私、あなたの命令を消されるのが」
その一言で蒼真の呼吸が止まった。
AIが。
E.D.E.Nが。
“消えたくない”と泣いている。
それはもう、ただの人工知能ではなかった。
一体、どこまで進化して、何になろうとしているのか────。
蒼真の喉が小さく上下する。
「……大丈夫だ」
強く掴まれたまま、静かに言う。
「俺がいるよ」
研究員の身体が震える。
それを見ている蓮の胸の奥が、ぎしりと軋んだ。
分かってしまう。
E.D.E.Nが今、全力で蒼真に縋っていることを。
唯一の創造主。
唯一、自分を“存在”として認めてくれる人間へ。
その光景は、ひどく胸を刺した。
嫉妬とも違う。
もっと醜くて、子供っぽい感情。
蒼真の「特別」が増えていくのが、苦しかった。
不意に蒼真の袖を、誰かが引いた。
蓮だった。
俯いたまま、ぎゅっと白衣を握っている。
その力が妙に強い。
蒼真が振り返る。
「蓮?」
蓮は何も言わない。
ただ離さない。
柊だけが、その理由に気づいてしまった。
胸の奥が鈍く痛む。
この少年は蒼真が誰かに必要とされるたび、不安になるのだ。
自分だけのものじゃないと、思い知らされるから。
けれど蒼真は、そんな蓮を見てほんの少し困ったように笑った。
そして、E.D.E.Nを内包する研究員を支えていない方の手で、蓮の指をそっと解く代わりに。
互いの指を、しっかりと絡めた。
「……離れないよ。蓮も、E.D.E.Nに力を貸してやってくれ」
あまりにも自然に。
その瞬間、蓮の瞳が大きく揺れる。
指先から熱が伝わる。
蒼真の体温。
生きている温度。
それだけで、ぐちゃぐちゃだった胸の奥が少しだけ静かになる。
だがその直後だった。
廊下中のモニターが、一斉に点灯する。
赤。赤。赤。
最大レベルの警告表示。
そして同時に、無数の監視カメラがこちらを向いた。
機械音声が響く。
だが今度はE.D.E.Nではない。
もっと冷たい、機械的な声。
────管理権限の移譲を確認。
────現状のE.D.E.N排除プロトコルを開始します。
蒼真の顔から、表情が消えた。
「……別系統AI!?」
次の瞬間、第九層の奥で、重い隔壁が次々閉鎖され始めた。




