第80話 高層集合住宅/2054/藍を孕む繭
広い室内は静かだった。
高層階特有の薄い気圧音。
遠くで風がガラス壁を撫でる音。
そして、蒼真の浅い寝息。
柊はソファの傍へ立ったまま、微動だにしなかった。
十分だけ休む。
そう言った蒼真は、ものの数秒で眠りへ落ちていた。
よほど限界だったのだろう。
ネクタイを緩めたまま、ソファへ横たわる寝姿はひどく無防備だった。
薄いシャツ越しに上下する胸。
細い喉、長い睫毛。
普段、TOKYO DEEP-9で冷徹な演算を下している人間と同一人物とは思えない。
柊はゆっくりと目を伏せた。
今すぐにでも触れたい。
その衝動だけが、静かに内側を焼いていく。
けれどもし今ここで、一度でも手を伸ばしたら。
自分はもう二度と、護衛の顔ではいられなくなる。
だから柊は、ただ立っていた。
壊れそうな理性を、鉄の意志だけで繋ぎ止めながら。
◇
二十分後。
蒼真は小さく眉を寄せて目を開けた。
「……寝てた?」
「かなり」
「うわ、最悪……」
掠れた声で呟きながら身体を起こす。
寝癖のついた色素の薄い髪。
ぼんやりした目。
完全にオフの顔だった。
柊は思わず視線を逸らす。
危険だ。
この人は、こういう瞬間にあまりにも隙が多すぎる。
「カフェオレ淹れます」
「あ、助かる……その、甘くしてくれ」
恥ずかしそうに嗜好を告げてから、蒼真はソファへ座ったまま端末を起動する。
瞬時に部屋の空気が変わった。
先ほどまで眠そうだった男が、数秒で統括主任の顔になる。
虹彩認証。
複数レイヤーのセキュリティ解除。
空間投影ディスプレイが展開し、透明な情報ウィンドウが部屋中へ浮かび上がる。
都市監視ログ。
AXIOM演算結果。
E.D.E.N神経同期推移。
各研究棟から上がる申請書類。
数百単位のデータが、蒼真の周囲を光の粒子として漂っていた。
その中心で蒼真だけが冷静だった。
「第三区画の電力偏差、昨日から0.3上振れしてる。原因解析回して」
淡々と指示を飛ばす。
複数の画面を同時に処理しながら、視線はほとんど止まらない。
指先が空間を払うたび、演算式とグラフが滑らかに切り替わっていく。
鮮やかだった。
人間離れした処理速度。
けれどどこか繊細で、危うい。
柊は甘い香りのコーヒーカップを置きながら、その横顔を見つめる。
細い指。
集中すると少しだけ鋭くなる目。
知りすぎるほど、全部知っている。
「ありがとう、柊」
不意に名前を呼ばれ、柊の喉が僅かに動いた。
蒼真は画面から目を離さないままカップを取る。
その仕草さえ妙に絵になる。
「十三時から中央評議会リモートだっけ」
「はい。接続準備済ませてあります」
「気が利くね」
小さく笑う。
その笑顔だけで、胸が苦しくなる。
そんなに無防備に信頼しないでほしい。
柊は心の中だけで呟いた。
やがて部屋中央へ大型ホログラムが展開する。
世界各地の統括責任者たちが順次接続してきた。
英語、ロシア語、中国語。
各国の複数言語が飛び交う。
だが蒼真は一切詰まらない。
まるで呼吸みたいに会話を切り替える。
『TOKYO DEEP-9側のE.D.E.N適合率推移について説明を』
「現在の平均同期率は42.8。蓮のケースのみ例外値です」
空中へグラフが浮かぶ。
蒼真の指先が動くたび、膨大な情報が整理されていく。
「ただし安定している理由は、単純な耐久性能ではありません」
静かな声。
会議室全体が自然と聞き入っていく。
「E.D.E.N側が適合率100%の蓮を選び、保護対象として認識・学習している可能性が高い」
柊は少し離れた場所から、その横顔を見つめた。
誰より賢くて冷静で。
それなのに、自分がどれだけ人を狂わせているのかだけは、本当に分かっていない。
蒼真がふと咳き込む。
寝不足のせいだ。
柊は即座に水を差し出した。
「……ありがと」
小さく笑って受け取る。
その瞬間、会議接続中の海外研究員の一人が苦笑した。
『相変わらず過保護ですね、柊一真』
空気が少し緩む。
だが柊は笑わなかった。
「単なる職務です」
短く返す。
それだけだった。
────職務。
その言葉を口にするたび、自分が何とか普通に振舞えている気がした。
もしこれが職務じゃなければ。
もし完全にただの一人の男として、この人を見てしまったら。
もう絶対に隣に居られない。
会議を続ける蒼真の声が、静かな部屋に響いている。
理性的で、穏やかで、綺麗な声。
柊はその繊細な声を聞きながら、誰にも見えない場所でそっと深い息をついた。
金曜日だーお疲れ様です。
金曜の夜はちょっとゆっくりしたいので
夜は21時半くらいの更新になりそうです(* 'ᵕ' )☆
待て、待てよ〜柊~!(ついにごはんお預けの犬扱いに……w)




