第79話 高層集合住宅/2054/理性の檻を弄る風
「ちゃんと、蒼真の匂いだった」
その言葉が落ちたあと。
病室には、妙な静寂が残った。
蒼真だけが状況を理解できていない顔をしている。
「えっと……俺、そんなに匂い違った?」
「うん」
蓮は迷いなく即答した。
「いつもより甘い」
「そ、そう?」
「うん」
至近距離のまま見上げられて、蒼真が困ったように笑う。
白い耳がまだ赤い。
その反応を見て、柊の奥歯が静かに軋んだ。
これ以上、二人を近付かせたくない。
本能の警告が胸の奥で鳴る。
醜い嫉妬だ。
けれど同時にその無防備な顔を自分だけに向けてほしいという、儚い願いも確かに存在していた。
「統括主任」
柊は低く声を挟む。
「そろそろ次の会議の時間です」
「あ、ほんとだ……はぁ」
蒼真がようやく身体を起こす。
その瞬間、蓮の指先が白衣の袖を掴んだ。
小さな抵抗だけれど、あまりにも露骨だった。
蒼真が目を瞬かせる。
「蓮?」
「……もう帰るのか」
責めるでも拗ねるでもなく、その声音は静かだった。
ただ、置いていかれる子供の声だった。
蒼真の表情が一瞬で柔らかくなる。
「仕事が終わったらまた来るよ。今日は家からリモート会議なんだ。なんとか面会時間に間に合わせるから」
「本当に?」
「うん。約束」
蒼真はそう言って、自然に蓮の髪へ触れた。
さらりと白い手が黒髪を撫でる。
その手つきは優しかった。
だから残酷だ、と柊は思う。
蓮は目を細める。
本物の黒猫のように気持ち良さそうにしていた。
その光景を見た柊の胸の奥で、何かがひどく濁った。
◇
高層集合住宅への帰路。
都市高速を走る車窓の向こうで、青白い高層群が流れていく。
朝の光を反射したガラス塔は冷たく美しい。
車内には静かな空調音だけが響いていた。
自動運転車両の後部座席で、蒼真はシートへ深く身体を預けている。
昨夜ほとんど寝ていないせいで、かなり疲れているのだろう。
細い指でこめかみを押さえていた。
「大丈夫ですか」
「んー……ちょっと寝不足かも」
掠れた声。
その瞬間、また香りが揺れる。
アイリスと、柔らかなウッド。
その奥に残る、蒼真自身の清潔な体臭。
柊は視線を逸らした。
駄目だ、近すぎる。
蒼真は無防備に隣へ寄りかかってくる。
「……柊」
「はい」
「肩、借りていい?」
断れるはずがなかった。
「……どうぞ」
次の瞬間。
蒼真の軽い身体が肩へ預けられる。
柔らかい髪が首筋へ触れた。
ふわりと、柊にとっては煽情的な匂いが香る。
理性が軋む。
柊は静かに拳を握った。
このまま細い手首を掴んで。
シートへ押し倒して、白衣を乱して。
その綺麗な白い喉へ、自分の痕跡を刻み込みたい。
誰にも触れられないくらい、ぐちゃぐちゃにしたい。
自分だけの匂いで染めてしまいたい。
そんな衝動が、一瞬で脳を焼く。
けれど柊の表情筋は微動だにしないまま動かなかった。
護衛であり、部下。
蒼真が信頼する人間。
それを壊した瞬間、自分は終わってしまう。
だから耐える。
胸が裂けそうなほど欲しくても。
耐えるしかない。
握りしめた拳から、血が滲んだ。
◇
高層集合住宅の自室。
巨大なガラス窓の向こうで、青空がのぞき、陽光が白く光っている。
蒼真は慣れたソファへ倒れ込むように座った。
「……疲れた……」
「少し仮眠を取ってください」
「じゃあ、十分だけ」
ネクタイを緩める仕草。
白衣を脱いでソファ脇へ置く。
シャツ越しに浮かぶ華奢な身体の線。
細い首に、鎖骨。
一度触れた相手の前で、無防備すぎる。
柊は数歩離れた場所で立ったまま、じっとそれを見ていた。
喉が熱く乾く。
頭の奥が痺れる。
今なら簡単に押し倒せる。
抵抗なんてきっとされない。
蒼真は、自分を信頼しきっているから。
その事実が余計に柊を狂わせる。
ソファに寝そべって目を閉じた蒼真が、小さく息を吐いた。
「……柊」
「はい」
「近くにいて」
無自覚な一言。
柊の理性が、ぎり、と音を立てて壊れそうになる。
蒼真は知らない。
その言葉一つで、どれだけ人を狂わせるのかを。
柊はゆっくりと重い息を吐く。
そして何事もない顔で、ソファの傍へ立った。
「……はい、ここにいます」
必死に耐えながら、低く答える。
その務めて冷静な声の下で。
誰にも見せない欲望だけが、静かに爪を立てていた。
明日の朝は8時半くらいの更新です。
なんか柊かわいそうになってきた(笑)
どこまで耐えられるのかな……
作者にも分かんないやw




