第78話 医療棟上層区画/2054/月を覗く黒猫
監視カメラの死角。
冷却配管を流れる液体音が、低く施設内へ響いている。
白い非常灯。
夜の研究棟特有の、人工的な静寂。
蓮はそこに立ったまま、遠ざかっていく二人の背中を見つめていた。
蒼真の肩へ置かれた柊の手。
その手に、無意識に体重を預けた蒼真。
たったそれだけの光景だった。
胸の奥が妙にざわつく。
実験中に感じる神経負荷とは違う。
もっと鈍くて深い、痛み。
自分の知らない場所へ、蒼真が少しずつ行ってしまうような感覚だった。
『蓮』
耳の奥で電子音声が響く。
E.D.E.Nだ。
最近は神経接続を切っていても、時折こうして思考補助のように声を落としてくる。
『生体反応を確認。心拍上昇。交感神経活性化』
蓮は返事をしなかった。
視線だけが静かに細まる。
『感情推定を開始』
『不安。独占欲。嫉妬。複合感情と推定』
蓮の喉が小さく上下する。
「……嫉妬?」
自分で呟いた言葉なのに、意味がよく分からなかった。
E.D.E.Nは淡々と続ける。
『対象:桐生蒼真』
『対象補助情報:柊一真との接触頻度の増加を確認』
次の瞬間。
蓮の視界端へ、赤い警告文字が一瞬だけ走った。
【RESTRICTED COMMAND】
【SOUMA KIRYU PRIORITY PROTECTION】
【OBSERVATION / RECORDING / EXCLUSION OF KAZUMA HIIRAGI : PROHIBITED】
蒼真自身が組み込んだ制限コード。
E.D.E.Nは、蒼真と柊一真を監視対象にできない。
ログ保存も分析も、まして柊一真の排除判断など、最初から許可されていなかった。
蒼真が禁じたからだ。
蓮は静かに息を吐く。
少しだけ安心した自分に、逆に戸惑った。
もしE.D.E.Nにその制限が無ければ────。
この胸のざわつきに名前がついた瞬間、何か取り返しのつかないことになっていた気がした。
『創造主・桐生蒼真の命令を最優先します』
E.D.E.Nの声は静かだった。
『桐生蒼真と柊一真への観測は禁止されています』
「……そうか」
蓮は小さく目を伏せる。
蒼真は柊を守っている。
独占欲から排除を推奨するE.D.E.Nから。
その事実が、胸の奥へゆっくり沈んでいった。
◇
翌朝。
I.W.S.C.医療棟上層区画。
外周ガラスから差し込む朝日が、白い床へ淡く滲んでいる。
蒼真はエレベーター前で立ち止まった。
「……変じゃないかな」
「何がです?」
隣に立つ柊が視線を向ける。
蒼真は少しだけ困ったように、自分の手首へ鼻先を寄せた。
そこから微かに香るのは、柔らかなアイリスとスモークウッド。
夜明け前の図書館のような静かな紙の匂い。
その奥に、白百合を指先でそっと裂いたかのような、透明な甘さが香る。
清潔で知的なのに、どこか人肌を思わせる熱が残る良い香りだった。
「イヴェット女史に勧められて……」
「香水ですか?」
「うん。蓮、鼻がいいから」
蒼真は少し声を落とす。
「……アレクシスのアンカーの蜜の匂い、まだ残ってるかもしれないし」
柊の瞳がわずかに揺れた。
だが何も言わない。
代わりに蒼真の手首を軽く取った。
不意の接触。
慣れていない蒼真の肩が小さく震える。
柊はそのまま香りを確かめるように顔を寄せた。
呼吸が触れそうな距離。
「……似合ってますよ」
低い声が鼓膜を撫でる。
「その香り、あなたが纏うと危険なくらい色気が出る」
「柊、朝から何言ってるの」
蒼真が呆れたように笑う。
けれど耳が少し赤い。
柊は目を細めた。
この人は、自分がどれほど無防備か分かっていない。
だから皆、壊れるほど惹かれてしまう。
その時、エレベーターの扉が静かに開いた。
二人が乗り込む。
閉まりかけた扉の向こう。
通路の角で、蓮が立っていた。
黒い瞳が静かにこちらを見る。
蒼真の手首へ触れていた柊の指。
そして漂う、知らない香り。
蓮はその匂いを吸い込む。
蒼真の匂いが、少しだけ変わっていた。
知らない誰かに触れられたみたいで。
胸の奥が、妙に苦しかった。
『感情反応を確認』
E.D.E.Nが静かに告げる。
『桐生蒼真への執着値が上昇しています』
蓮は何も答えない。
ただ閉じていくエレベーターを見つめていた。
その眼差しだけが、静かに熱を孕んでいた。
◇
病室の扉が開いた瞬間。
二人が来る前に何とか病室に戻った蓮は反射的に視線を上げた。
白い朝光を背に、蒼真が立っている。
その隣には柊。
ただそれだけで、胸の奥がざわつく。
「おはよう、蓮。すぐお見舞いに来られなくて、ごめん」
蒼真が柔らかく笑う。
その声音だけで、張り詰めていた神経が少し緩むのが分かった。
蓮はベッドへ腰掛けたまま、小さく頷く。
「……来ると思ってた」
「退院前なのに勝手に病室抜け出す子がいるって聞いたから」
蒼真が軽く眉を寄せる。
「昨夜、中央区画まで行ったろ」
蓮の肩が僅かに動いた。
柊が目を細める。
「監視ログ、ちゃんと残ってたぞ」
「……別に」
「別に、じゃない」
蒼真は困ったように息を吐いた。
怒っているわけではない。
むしろ心配している声音だった。
その優しさが、蓮には苦しい。
蒼真はいつもこうだ。
どこまでも優しい。
だから、決して自分だけのものにならない。
「脳接続直後なんだから、安静にしてないと駄目だろ」
そう言いながら、蒼真は自然にベッド脇へ歩み寄る。
「あ。黒猫クッション置いてある。……使ってくれてる?」
軽く笑いながら蒼真が聞く。
巨大な黒猫はベッドの上で強烈な存在感を放っている。
「……うん」
「良かった」
クッションを撫でる白衣の袖が揺れる。
その瞬間。
ふわりと香りが落ちてきた。
知らない匂い。
静かな花と、淡い木の肌。
蒼真本来の清潔な匂いと、柔らかな蜜の甘さが重なっている。
蓮の睫毛がわずかに震えた。
「……なんか、匂いが違う」
ぽつりと落ちた声に、蒼真が目を瞬かせる。
「え?」
病室が静かになる。
柊だけが、その言葉の意味を理解していた。
蓮は本当に鼻が利く。
なにも誤魔化せないくらいに。
蒼真は少しだけ気まずそうに視線を逸らした。
「あー……その……香水」
「香水?」
「イヴェット女史に勧められた奴、ずっとほったらかしだったし、たまにはね……」
蓮は黙ったまま蒼真を見る。
長い睫毛の奥。
黒い瞳だけが静かに揺れていた。
「……なんで」
「え?」
「なんで、匂い変える必要があるんだ」
静かな声だった。
怒っているようには聞こえない。
なのに胸の奥へ沈んでくる。
蒼真は一瞬だけ言葉に詰まった。
アレクシスのアンカーの残り香を隠したかった、とは流石に言えない。
「……ちょっと気分転換?」
誤魔化すみたいに笑う。
だが蓮は笑わなかった。
じっと蒼真を見ている。
まるで知らない何かを確かめるみたいに。
その視線を遮るように、柊が口を開いた。
「統括主任は、会議続きでほとんど寝てないんだ。許してやってくれ」
「柊」
「シャワー浴びる暇もなかったでしょう」
「あー……、そうなんだよね、だからまぁ、エチケットっていうか……」
柊は自然な動作で言い募る蒼真の肩へ触れる。
軽く支えるだけのように見えるが、大きな手がしっかり蒼真に触れている。
蓮の瞳が冷えた。
ほんの僅かに空気が変わる。
けれど蒼真は気付かない。
「……蓮?」
不思議そうに名前を呼ぶ。
蓮は数秒黙った後、ふいに視線を落とした。
「……蒼真」
「ん?」
「もう少し、こっち来て」
低い声。
蒼真は警戒もせず、ベッド脇へ近付いた。
「どうかした?」
次の瞬間、蓮の手が白衣の袖を掴む。
そのまま静かに引き寄せた。
不意を突かれた蒼真の身体が傾く。
「わっ」
ベッドへ片手をついた蒼真へ、蓮がそっと顔を寄せた。
首筋。
耳の下。
そこへ鼻先が触れそうな距離まで近付く。
蒼真の身体がぴくりと震えた。
「……っ、蓮?」
蓮は答えない。
ただ静かに匂いを確かめる。
花と蜜と、木の香り。
その最奥にちゃんといつもの蒼真の匂いが残っていることに、ようやく少しだけ安心した。
近すぎる距離に、蒼真の呼吸が乱れる。
白い耳がうっすら赤い。
それを見ていた柊の喉がひどく乾いた。
目の前の光景が危うすぎる。
蓮は顔を上げる。
黒い瞳が真っ直ぐ蒼真を映した。
「……よかった」
「……何が?」
「ちゃんと、蒼真の匂いだった」
「えっ?」
蒼真が珍しくぽかんと間の抜けた顔をする。
柊はゆっくり目を伏せた。
理解してしまう。
この少年はもう、自分でも止められないところまで来ている。
そして蒼真はまだ、その意味を知らない。
夜はまた18時半過ぎくらいの
更新になりそうです。(なんか間違って20時って書いてた)
あざとく甘え倒す黒猫な蓮がこれから増えるかもです。




