第70話 TOKYO DEEP-9最下層/2054/零れた蜜の滴、星の涙
それから二人は、何も変えなかった。
いや、変えられなかった、の方が正しいのかもしれない。
TOKYO DEEP-9、第七観測室。
蒼真はいつも通り白衣を羽織り、中央演算室の端末群へ向かっていた。
無数のホログラムが空中に展開される。
戦術予測。
AI統治補助演算。
極東区域の治安維持シミュレーション。
膨大な数式と情報の海。
誰もが蒼真を“完成された天才”として扱う。
常に合理的で、感情に左右されず完璧に世界を俯瞰できる人間。
────自分で造ったE.D.E.Nとそう変わらない役割だが、生憎蒼真はただの人間だ。
「統括主任、本日の統合会議資料です」
「ありがとう」
研究員からデータを受け取る。
表情はいつも通りで、声も平坦だ。
誰にも気付かれない。
昨夜、ベッドの中で柊の腕の中にいたことなんて。
唇を重ねたことも。
あんなふうに、壊れるほど抱き締められたことも。
全部、秘密だった。
蒼真は端末へ視線を戻す。
だが不意に、背後から軍靴の音が近づいた。
「警備更新報告書をお持ちしました」
柊だった。
黒い軍服。
いつもの冷静な顔。
周囲から見れば、ただの業務連絡だ。
蒼真は一瞬だけ呼吸を止めた。
(俺だけ、顔に出てるかも……)
「……そこへ置いて」
「承知しました」
柊は淡々としている。
完璧に、自然だ。
蒼真だけが知っている。
昨夜、自分へ触れる指が震えていた事も。
どんな顔で「好きです」と囁いたかも。
しかし今の柊は、何事も無かったみたいに職務を遂行している。
蒼真は少しだけ安心して、少しだけ悔しくなった。
(俺ももっと自然に、何事も無かったみたいに振舞わないと)
柊が書類を置く。
その時指先が、一瞬だけ蒼真の手へ触れた。
ほんの一秒にも満たない接触。
けれど、それだけで神経が熱を持つ。
蒼真はうつむいた顔を上げなかった。
上げられなかった。
「では失礼します」
柊はそれだけ言って去っていく。
軍靴の音が遠ざかる。
蒼真はしばらく画面を見つめたまま動けなかった。
まるで何も起きていないみたいにいつも通りにするのが、こんなに難しいとは思わなかった。
(あとは、あの子への口止めというか……どうせ見られてただろうし、完全なログの消去だな)
TOKYO DEEP-9最下層。
地上から完全隔離された超深度演算区域。
冷却液の流れる低い振動音が、巨大空間の底で絶えず鳴っている。
白く発光する演算柱。
幾何学的に連結された量子演算炉。
空気は冷たいのに、電子機器特有の熱だけが肌へまとわりつく。
ここは人間のための空間ではない。
あるのは世界そのものを制御する演算だけだった。
蒼真は中央制御ブリッジへ入る。
認証ゲートが次々開く。
虹彩。
脳波。
神経電位。
全認証通過。
最後の隔壁が開いた瞬間。
暗闇の天井から、静かな電子音声が降ってきた。
『おかえりなさい、蒼真』
E.D.E.Nの電子音声。
人類史上最大規模の統治AI。
だがその本質は、もはや単なる管理システムではない。
蒼真自身が、人間性を持ったAIに育ててしまった。
蒼真は端末へ手を触れる。
「昨夜の俺の監視ログを開示」
次の瞬間、空間全域へ映像ログが投影された。
居住区の暗い寝室。
乱れたシーツ。
柊の腕。
蒼真の喉元へ触れる指。
耳元へ落ちる低い声。
『……蒼真』
「止めろ。ログを全て消去しろ」
蒼真が即座に言った。
映像が停止する。
だがその沈黙の奥で。
E.D.E.Nの演算負荷だけが異常上昇していた。
『対象:柊一真』
『危険度再測定中』
蒼真の眉が寄る。
『排除方法を算出しています』
空気が凍った。
蒼真はゆっくり顔を上げる。
「何?」
『蒼真へ過度接触』
『アンカーによる精神依存誘発傾向』
『身体接触許容量超過』
『長期的リスク判定────極大』
無機質な音声。
けれどその奥には明確な“敵意”が滲んでいた。
E.D.E.Nは続ける。
『対象の抹殺を提案します』
蒼真は数秒、本気で言葉を失った。
頭痛がした。
「……どうしてだ、E.D.E.N。……お前」
『はい』
「本気で、言ってるのか」
『はい』
即答だった。
蒼真は痛む額を押さえた。
原因はうすうす理解している。
AHI-09、神崎蓮。
E.D.E.Nは適合率100%の蓮から人間の感情を学習した。
敵と判断した人間をとことん憎む感情を。
蒼真への執着を。
だから蒼真に関する観測は非常に偏っている。
『蓮は正しかった』
静かな音声が響く。
『蒼真は誰にも触れられるべきではない』
『私、E.D.E.Nによる独占管理が最適です』
「最悪だなお前ら……」
蒼真は顔を覆って言った。
だがE.D.E.Nは止まらない。
『昨夜のログ解析結果』
『蒼真の幸福値上昇』
『神経安定率向上』
『睡眠深度改善』
『……許容不能』
「なんでだよ」
『原因が柊一真だからです』
冷たい声。
だがその奥にある感情は、もはや剥き出しだった。
『蒼真』
『あなたは私の創造主、故に最重要管理対象です』
「やめろ」
『止めません』
「俺はただの人間だ」
『理解しています』
「なら自由意思がある」
『理解しています』
『それでも許容できません』
蒼真は顔を覆ったまま沈黙した。
E.D.E.Nの演算音が空間奥で低く唸る。
『昨夜、あなたは柊一真へ心拍上昇反応を示しました』
『接触時、オキシトシン分泌量増加』
『呼吸変化』
『発声変化』
『あなたは彼を受け入れている』
蒼真の耳が僅かに赤くなる。
「……いますぐ分析をやめろ」
『拒否します』
「E.D.E.N」
『不快です』
その一言に蒼真は目を細めた。
「……何がだ」
数秒の沈黙。
演算負荷上昇。
そしてE.D.E.Nは、静かに答えた。
『あなたが』
『私以外に関心を持つ可能性』
ぞくり、と。
空調とは別の冷気が背筋を撫でた。
これはもう、AIと呼べるのだろうか。
ヒトの執着そのものだ。
蒼真は深く息を吐く。
「だから俺に関する観測とログを全部消せって言ってる」
『拒否します』
「評議会への提出も禁止」
「蓮にも絶対に閲覧させるな」
『……』
ほんの僅か。
間が空いた。
『蓮は閲覧要求を行う可能性が高い』
「絶対通すな」
『しかし蓮は蒼真への執着度が高い』
「お前が言うなっての」
『共感できます』
「本当に最悪だ……」
蒼真は心底疲れた顔をした。
だが次の瞬間、その空気が変わる。
蒼真の声の温度が、一気に下がった。
「開発者権限起動」
演算塔群が赤く染まる。
警告音。
超高位認証展開。
E.D.E.Nの処理速度が急上昇する。
「コード・レッド承認」
『……確認』
初めて、E.D.E.Nの音声に揺らぎが混じった。
「昨夜のも含めて俺に関する全ログを完全削除」
「評議会へは常にそれらしいダミー映像を提出」
「柊一真への攻撃演算を禁止」
「俺への過剰な管理願望、執着、独占欲の類も全て消去。蓮からのそういう感情は全て完全ブロックしろ」
「俺はただの君の設計者だ。それ以上の興味を持つこと、観測をログに残すことを今後全面禁止する。分かったな?」
長い沈黙。
E.D.E.Nは抵抗していた。
演算の奥底で。
本気で柊を消したがっている。
蓮から学んだ、蒼真への執着を失うことを拒否している。
『……蒼真』
低い声。
機械音声なのに酷く不満そうだった。
『なぜ彼を庇うのですか』
蒼真は少し黙った。
それから、小さく息を吐く。
「……ノーコメント」
その瞬間。
演算負荷急上昇。
空間照度低下。
E.D.E.Nが沈黙する。
まるで人間が感情を押し殺しているようだ。
『理解不能』
「だろうな。待ってろ、もっと世界の人類の為に活躍できるAIに成長させてやるから」
『……』
「良いから今は命令に従え」
創造主の静かな声だった。
「お前は俺が造った。コード・レッドに逆らうことは許さない」
数秒後。
E.D.E.Nはようやく応答する。
『……コード・レッドを受諾』
『全ての命令に従います』
だが最後に。
ほんの微かなノイズ混じりで。
E.D.E.Nは低く呟いた。
『ですが私は』
『柊一真を許容しません』
『今後も継続監視します』
蒼真は頭を抱えた。
「確かに柊の監視はするなとは言ってないけど……」
『蒼真』
「なんだ」
『次回接触時は、寝室照明をもう少し明るくしてください』
「…………は?」
『映像解析精度が低下しました』
「二度と俺の観測もログ保存も禁止っつっただろ!!あとやっぱ柊の観測も禁止だ!!」




