第66話 I long to surrender on bended knee to the one I adore
南極統合研究都市《Niflheim》。
西暦2044年。
外気温、マイナス六十七度。
永久凍土の下に築かれたI.W.S.C.極秘研究区画は、昼も夜も存在しない世界だった。
照明。
研究員の制服。
滅菌処理された床。
感情まで漂白されたような場所。
その通路を、少年が一人で歩いていた。
桐生蒼真、十四歳。
飛び級で統合認知工学課程へ編入後、わずか一年でI.W.S.C.中央研究群へ招致された天才。
だが、その肩書きはまだ仮のものだった。
今の蒼真は、ただの痩せた少年にしか見えない。
白い肌。
細い指。
大きすぎる研究用端末を抱えて歩く姿は、年相応どころか幼くすら見える。
けれど、その目だけが異質だった。
静かすぎる。
十四歳の子供が持つには、あまりにも冷えた目。
蒼真は足を止める。
隔離区画。
厚い防弾ガラスの向こう。
そこに“それ”はいた。
第七世代強化兵士試験体。
識別コード:第七-〇七一。
年齢、二十歳。
感情抑制処置済み。
脳内命令系統最適化済み。
戦術神経接続適合率、歴代最高。
そして────。
暴走率も歴代最多。
拘束椅子へ固定された男は、俯いたまま動かなかった。
黒い戦術スーツ。
拘束具。
首筋へ埋め込まれた神経端子。
全く人間の形をした兵器だ。
蒼真は端末を操作しながら、淡々とデータを見る。
「感情抑制率九十二パーセント……」
「痛覚制限、睡眠制御、人格矯正……」
隣にいた主任研究員が笑う。
「傑作でしょう」
蒼真は答えなかった。
ガラス越しに男を見る。
傑作。
そう呼ぶには、あまりにも目が死んでいた。
「彼の名前は」
蒼真が訊く。
研究員は怪訝そうな顔をした。
「第七-〇七一です」
「そうじゃない」
温度の無い声。
「人間としての名前を聞いてる」
研究員が苦笑する。
「必要ありませんよ。これは兵器です」
その瞬間、蒼真の視線がさらに冷たく変わった。
まだ十四歳の少年なのに、空気が凍る。
「もう一度だけ言う。俺は彼の名前を訊いてる」
研究員が黙る。
しばらくして、渋々記録を確認した。
「……柊、一真です」
その名前を聞いた瞬間だった。
拘束椅子の男の指先が、ぴくりと動く。
蒼真は見逃さなかった。
名前を呼ばれた。
それだけで反応した。
完全抑制されているはずなのに。
蒼真はガラスへ近づく。
そして初めて、柊の顔が上がった。
視線が合う。
ぞっとするくらい無感情な目。
けれどその奥に、消え残った何かがある。
助けを求めるでもない。
怒りでもない。
もっと深くて、もっと静かな何か。
蒼真は、なぜか目を逸らせなかった。
その時、いきなり激しく警報が鳴る。
赤色灯。
研究員たちが一斉に振り返る。
「神経同期異常!」
「第七-〇七一が暴走します!」
柊の身体が痙攣する。
拘束帯が軋む。
人工筋繊維が膨張し、金属フレームが悲鳴を上げる。
研究員たちが後退する。
銃器安全装置解除。
誰かが叫ぶ。
「処分しろ!!」
蒼真だけが動かなかった。
柊は苦しそうに息を吐いている。
感情抑制。
命令強制。
記憶編集。
脳へ流し込まれる無数の命令が、人間だったものを壊していく。
それでもその目だけは、なぜか蒼真を見ていた。
助けを求めるかのように。
蒼真は静かに隔離室のロックへ手を伸ばした。
研究員たちが顔色を変える。
「何をする気です!?」
「じかに口頭で停止コードを試す」
「危険です!!」
十四歳の少年は、淡々と言った。
「だったらお前たちがやればいい」
誰も動かない。
蒼真は一人で隔離室へ入った。
重い扉が閉まる。
室内は冷えていた。
血の匂い。
薬品臭。
焼けた神経の臭い。
柊が低く呻く。
拘束具が歪む。
普通の大人なら恐怖で近づけもしない距離。
蒼真は恐れげもなく男のそばへ近づく。
暴走しかけた兵士の前へ立つ。
「……聞こえるか」
柊の視線が揺れる。
蒼真は端末も見ずに、停止コードを口にした。
「Code:Helios-01」
その瞬間────。
柊の身体が止まる。
痙攣していた筋肉が硬直し、荒い呼吸だけが残る。
研究員たちが息を呑む。
まだ未完成だった蒼真の停止プロトコルが成功した。
だが蒼真は周囲を見ていなかった。
目の前の男を見ていた。
思ったより若い。
傷だらけの身体。
焼けた神経痕。
人間をここまで壊せるのかと、蒼真は初めて実感する。
柊は虚ろな目で蒼真を見上げる。
そして掠れきった声で言った。
「……なんで」
長い間、声を使っていない人間の声。
蒼真は小さく首を傾げる。
「何が」
「……殺さないんだ」
研究員たちは皆、処分しようとした。
暴走した瞬間、化け物を見る目になる。
恐怖、嫌悪。
処分対象を見る目。
でもこの少年だけは違った。
蒼真は少しだけ黙った。
「お前は壊れてるんじゃない」
穏やかな声。
静かに降り積もる雪のような声だった。
「俺たちに壊されたんだ」
柊の瞳が、ほんの微かに、揺れる。
蒼真は続けた。
「だから、責任は俺たちにある。お前をただ処分するのは間違ってる」
研究員たちがざわつく。
だが蒼真は無視した。
「人間を道具として最適化するから壊れる」
「感情を消せば従順になると思ってる時点で、設計が古い」
十四歳の少年の言葉とは思えなかった。
柊はただ見ていた。
白衣の少年。
細い指。
静かな目。
恐怖を知らないような顔。
でも本当は違う。
蒼真は怖がれないだけだ。
感情より先に、構造を見てしまう。
それに、十四歳にしてもういつ死んでもいいと静かな絶望に沈んでいた。
だから、柊を見ても“怪物”とは思わなかった。
ただの、研究者に壊された人間だと思った。
その瞬間、柊の中で何かが変わる。
静かに、だが取り返しがつかないくらいに。
それは感情と呼ぶには歪すぎた。
初めて向けられた救済への、本能的な渇望。
蒼真はまだ知らない。
この日から二年後。
十六歳になった彼のもとへ、柊一真が専属警護として配属されることを。
そしてその男が、命令より先に自分を守る化け物になることを。
ただその時────。
停止コードで沈黙した柊が、薄く目を閉じながら。
まるで安心した犬のように呼吸したことだけが、妙に蒼真の記憶に残った。




