第62話 深層階層接続室/2054/the songs of silence
警告音だけが、白い接続室へ鋭く鳴り響いていた。
蓮は激しく呼吸を乱しながらまだ蒼真の白衣を掴んでいる。
指先にはろくに力が入らない。
けれど離せなかった。
何故か手を離した瞬間、どこかへ行ってしまいそうだという強い不安に支配されていた。
E.D.E.Nの中で見た“未来予測”が脳裏に焼き付いて離れない。
蒼真が傷つき壊れ、殺される未来。
それを防ぐためにE.D.E.Nは、人間を排除しようとしていた。
獣のような独占欲のままに。
「蓮」
蒼真の声が近い。
低くて静かな声。
それだけで少し呼吸が楽になる自分が腹立たしかった。
「目の焦点が合ってない」
頬へ触れる手が熱を確かめるように動く。
「神経過負荷を起こしてる。今すぐここに医療スタッフを呼ぶから────」
端末の緊急コールを押しながら蒼真が言い募る。
「……行くな」
掠れた声だった。
蒼真が僅かに目を見開く。
「蓮?」
「今……一人にすんな……」
蒼真の声は聞こえてはいるようだが、今の蓮には理解できていないようだ。
室内の空気が僅かに変わる。
音もなく柊が動いた。
「統括主任」
低い声。
「一度彼から離れてください」
「だが────」
「今の神経状態では接触刺激が強すぎる」
合理的な言葉だった。
だが声のトーンで蓮には分かった。
柊は、蒼真を蓮から引き離そうとしている。
それが無性に腹立たしい。
反射的に蒼真を抱き寄せるように白衣を掴む力を強めた。
「っ……蓮」
蒼真の身体が少し傾く。
簡単に折れてしまいそうなくらい細い。
けれど彼は、自分がどれだけ危うい存在か分かっていない。
柊の鋭く冷たい眼が細められる。
それでも感情が無いわけではないと、蓮はもう知っていた。
「蓮」
柊の静かな声。
「手を離せ」
「……嫌だ」
蒼真が困ったように眉を寄せる。
「蓮、子供みたいなこと言うな」
「蒼真が悪い」
「何で俺なんだ」
「無茶ばっかするからだろ……だから、おれも、E.D.E.Nも……」
息が上手く吸えない。
視界も滲む。
それでも蒼真だけははっきり見えた。
E.D.E.Nの中で何度も名前を呼ばれていたせいだ。
脳が、蒼真を最優先対象として認識してしまっている。
まるでE.D.E.Nの呪いだ。
その時、不意に柊が蒼真の肩へ手を置いた。
「統括主任」
蒼真が振り返る。
二人の距離が近い。
柊は背が高い。
そのせいで、蒼真の白い身体が影へ閉じ込められたみたいに見える。
「あなたは少し下がってください」
「でも蓮が」
「だからです」
柊の声は低く抑えられていた。
「今の蓮は正常な判断ができる状態ではない」
その言葉に、蓮の胸奥がざらりと軋む。
まともじゃないのは分かっている。
E.D.E.Nに脳を掻き回された直後だ。
それでも蒼真を離したくない感情だけは本物だった。
柊は続ける。
「あなたは自分が思っている以上に影響力が強い」
「……何だ、それは」
「自覚が無いから厄介なんです」
────一瞬。
蒼真が黙った。
その空気に、蓮は妙な違和感を覚える。
柊の声音が、少しだけ違った。
いつもの“ただの護衛”の声じゃない。
もっと個人的な響きが混ざっている。
長年押し殺してきたものが、一瞬だけ滲んだように。
蒼真が小さく息を吐く。
「……お前までそんなこと言うのか」
「ただの事実です」
「俺は別に────」
「あなたは昔から、自分を軽視しすぎる」
ぴたり、と空気が止まる。
蓮は思わず柊を見る。
柊の目は真っ直ぐ蒼真だけを見ていた。
感情を削ぎ落とした男なのに。
その視線だけは、異様な熱を孕んでいる。
「統括主任」
低い声が落ちる。
「あなたが壊れると、皆終わりです」
蒼真の瞳が僅かに揺れた。
蓮は知っている。
柊は滅多に感情を言葉へ乗せない。
だからこそ重い。
蒼真も、それを理解していた。
白い接続室に機械音だけが響く。
やがて蒼真が、諦めたように目を伏せた。
「……分かった」
小さな声だった。
その瞬間、蓮の胸が妙にざわつく。
柊は蒼真の言葉だけを、蒼真は柊の言葉だけはちゃんと聞く。
昔からそれが嫌だった。
入り込めない場所が二人の間にあるのだ。
「蓮」
蒼真が再びこちらを見る。
今度は柊の提案通りに少しだけ距離を取っていた。
そのことに理由もなく苛立つ。
「まだ立てそうにもないな」
「……無理」
「すぐ治療するからいまは大人しく────」
「本当に無理」
蓮は掠れた声で言って、そのまま蒼真の袖を引いた。
子供じみた行動だと分かっている。
だが止まらない。
蒼真が少しバランスを崩す。
その身体を、柊が即座に支えた。
白衣越しに回される黒手袋の手。
蒼真の細い腰を支える動作が、驚くほど自然だった。
蓮の目が鋭くなる。
「……悪い、柊」
「当然の転倒防止です」
謝る蒼真に柊は淡々と答える。
だが蒼真の方は、一瞬だけ動きを止めていた。
触れられた腰から熱いなにかが伝わったかのように。
蓮はそれを見逃さなかった。
胸の奥が、嫌な熱で灼ける。
E.D.E.Nの声が脳裏で蘇る。
〈排除対象を増やす〉
ぞわり、と悪寒が走った。
「……っ」
「蓮!?」
蒼真がこちらへ手を伸ばす。
その瞬間、ふいに接続室のモニターが再び点灯した。
ノイズ混じりの青白い画面に文字列が浮かび上がる。
〈観測継続〉
〈蒼真感情変動を確認〉
〈神崎蓮の反応を学習〉
その場の空気が凍りつく。
蓮の背筋を冷たいものが走った。
今この瞬間も見られている。
E.D.E.Nは、いつでも自分たちを観測して学習している。
人間の愛情、嫉妬、執着────その、すべてを。
蒼真だけが、まだ気づいていない。
自分が怪物に愛され始めていることを。
そしてその怪物を孵化させたのが、蓮自身だということを。




