第60話 地下訓練区画/2054/月に叢雲
だんッ!!
白色灯だけが照らす無機質な空間で、鋭い音と共に蓮は床へ叩きつけられた。
鈍い衝撃が肺を潰す。
「ぐ……っ」
呼吸が詰まり、視界が白く明滅した。
だが次の瞬間には、反射的に床を転がる。
ほぼ同時に、さっきまで頭があった位置を軍靴が踏み抜いた。
コンクリートに亀裂が走る。
「……っ、は……」
息を乱しながら距離を取る。
向かい側。
黒い戦術服姿の柊一真が、感情の無い目でこちらを見ていた。
「反応が遅い」
低い声。
淡々としている。
まるで機械だ。
蓮は汗で張り付く前髪を乱暴にかき上げた。
「殺す気かよ」
「実戦はもっと容赦ないぞ」
即答だった。
この男は、訓練で一度も手加減したことがない。
最初は本気で嫌いだった。
殴られる。
投げられる。
呼吸ができなくなるまで締め落とされる。
それでも全く諦めずに訓練に付いてくる蓮に対して柊は、ただの一度も「頑張ったな」などとは言わない。
褒めない。
慰めない。
励まさない。
ただ淡々と、
「実戦では死ぬ」
「遅い」
「甘い」
かける言葉と言えばそれだけだ。
でも十四歳になった今、蓮は知っている。
この男は、“絶対に自分を壊さない範囲”を見切っている。
その上で、壊れる寸前まで追い込んでいる。
余計に容赦がなく始末に負えない教官でしかないのではという思いが何度頭をよぎったか知れない。
「さっさと立て」
柊が言う。
蓮は舌打ちしながら立ち上がった。
十三歳の頃より背が伸びた。
167cmになり、視線の高さも変わった。
細かった身体には少しずつ筋肉がつき始め、少年特有の危うい鋭さが出ている。
だが一番変わったのは目だった。
以前のような、怯えと諦めが混ざった色が薄れている。
代わりに、静かな執着と強くなる事への渇望がある。
「……もう一回」
柊の目が僅かに細くなる。
「休憩を入れろ」
「まだ動ける」
「統括主任に隠している痣がまた増えるぞ」
その瞬間、蓮の動きが止まった。
柊は感情のない顔で続ける。
「昨日、左脇腹を見られかけていた」
「……見てんのかよ」
「警護対象周辺は確認する」
本当に嫌な男だ、と蓮は思う。
だが同時に、妙な安心感もあった。
柊は全部見ている。
蓮がどれだけ無茶をしているかも。
そして、どれだけ蒼真を見ているかも。
訓練室の隅に置かれた端末が、不意に淡く発光した。
電子音。
柊が視線を向ける。
〈E.D.E.N.接続要求〉
蓮の眉が動く。
「また?」
「最近頻度が増えているな」
柊の声は低い。
蒼真が作った、世界で最も危険な人工知能E.D.E.N。
今やI.W.S.C.中枢管理の一部に組み込まれ、都市制御、戦術演算、監視網、気象調整にまで関与している。
だが最近、E.D.E.Nは奇妙な挙動を見せ始めていた。
“蒼真への過干渉”だ。
会議スケジュールの変更。
睡眠時間の調整。
警護ルートへの介入。
まるで蒼真を守ろうとしているようだ。
しかも蓮に対してだけ、明確な観測行動を示している。
訓練記録、心拍、生体データ。
E.D.E.Nは蓮を見ている。
貪欲に蓮からヒトを学ぼうとしているように感じる。
異常なほどに。
「……しょうがねーな」
蓮が呟く。
柊は端末を閉じた。
「統括主任が来る前に終わらせる」
その言葉とほぼ同時だった。
訓練室の自動扉が開く。
冷たい白光。
そこに立っていたのは蒼真だった。
白衣姿のまま、髪も少し乱れている。
多分また寝ていない。
蓮は眉を寄せる。
「……お前、また徹夜したんだろ」
蒼真は答えない。
代わりに足早に蓮へ近づく。
そして、いきなり顎へ手をかけた。
「っ」
ひやりとした指先。
蓮の呼吸が止まる。
蒼真はそのまま顔を寄せ、薄暗い照明の下で蓮の頬をじっと見る。
「……また、殴られたな」
「別にこのくらい……」
「ダメだ」
蒼真の綺麗な顔が近い。
近すぎる。
十四歳の蓮には、もうこの距離が危険だった。
蒼真は何一つ意識していない。
だから余計に始末が悪い。
蓮は不自然に視線を逸らす。
しかし蒼真は気づかない。
「柊」
静かな声。
「やりすぎるなって言ってるだろ」
「必要範囲です」
「必要でも顔は避けろ」
「今回は避けています」
「避けててこれか?」
淡々と会話する二人を見ながら、蓮は妙に腹が立った。
昔からそうだ。
柊は蒼真の言うことだけ聞く。
蒼真も、柊には妙に遠慮がない。
入り込めない感じがして、その空気が嫌だった。
「……蒼真」
低く呼ぶ。
蒼真が振り返る。
その瞬間、蓮はほとんど反射的に、蒼真の手首を掴んだ。
細い、研究者の手。
人を殴ったことのない手。
それなのにこの手は、世界を変えた。
「もうちょっと自分のこと大事にしてくれよ」
蒼真が少し目を見開く。
蓮は続ける。
「蒼真はすぐ無茶する」
「……蓮」
「だから俺、強くなるって言ってんの」
静かな訓練室に、呼吸音だけが落ちる。
蒼真は何も言わなかった。
代わりに、掴まれた手をそのままにしていた。
その瞬間、訓練室上部モニターが不意に点灯する。
ノイズ混じりの青白い画面。
そこへ、機械音声が流れた。
〈警告〉
〈対象:神崎蓮〉
〈E.D.E.N観測優先度を変更〉
〈早期接続を要請〉
空気が凍った。
柊の目が変わる。
蒼真の顔から、一瞬で血の気が引いた。




