第58話 ベッドルーム/2053/二匹の黒猫
蒼真のその言葉が落ちたあとも、しばらく二人は動けなかった。
雨音だけが静かに部屋を満たしている。
都市の光は相変わらず綺麗で、どこか現実感が薄かった。
蓮はまだ蒼真の手を握っている。
離したら、この人はまたどこか遠くへ行ってしまう気がした。
蒼真はそんな蓮を見下ろし、困ったように小さく笑った。
本当に、ほんの少しだけ。
「……今日はもう遅い」
掠れた声だった。
「もう寝なさい」
「蒼真は」
「明日は早朝から会議だからちょっと資料のまとめが────」
つまりまた、ほとんど眠らないつもりなのだ。
蓮は眉を寄せた。
「またソファで寝る気だろ」
「別に平気────」
「平気でいられるわけない」
蒼真が少し目を丸くする。
蓮は掴んだ袖を離さないまま、小さく睨んだ。
「この前も三時間しか寝てなかった」
「……見てたのか」
「起きたらいなかったから探した」
その時のことを思い出したのか、蒼真が微妙に視線を逸らす。
リビングのモニター群の前。
大量の資料に囲まれたまま、蒼真は朝方まで仕事をしていた。
青白いモニター光に照らされた横顔は、幽霊みたいに静かだった。
蓮はあの姿が嫌いだった。
自分を削ることに慣れすぎている。
蒼真は諦めたように息を吐く。
「……今日はちゃんと寝るよ」
「ほんとに?」
「ああ」
だが、その返答だけでは信用できない。
蓮が黙ったまま見上げていると、蒼真は少し考えてから、静かに言った。
「……メインベッド使うか」
「え」
「今日は珍しく早く帰れたから。……あの広すぎるベッド、一緒に使おう」
そう言って、悪戯っぽく笑った。
蓮の目が瞬く。
蒼真の主寝室。
この家の一番奥。
ほとんど使われていない部屋。
蒼真が不在の日が多いせいで、蓮は普段、その隣の少し狭い客室で寝ていた。
必要最低限の家具しかない部屋。
けれど今日だけは違う。
蒼真は気まずそうに視線を逸らした。
「……嫌なら別にいいけど」
「嫌じゃない!」
思った以上に即答してしまい、蓮は少し赤くなる。
蒼真がわずかに目を細めて笑った。
その顔が少しだけ嬉しそうに見えて、蓮の胸がまた変に苦しくなる。
さっさとシャワーを済ませた蓮は、蒼真が風呂を終わらせるのを待っていた。
ひとりだと余計に、メインベッドルームは静かだった。
薄暗い間接照明。
大きな窓。
広すぎる、清潔なベッド。
生活感が驚くほど少ない。
行った事は無いがまるでホテルみたいな部屋だ、と蓮は思った。
それなのに、微かに蒼真の匂いがする。
清潔な洗剤の香りと、薬品みたいな冷たい匂い。
その中に少しだけ残る、人の体温。
蓮は妙に落ち着かなくて、ベッドの端へ座った。
蒼真は湯船に浸かって風呂を終えたあと、濡れた髪のまま部屋へ戻ってくる。
黒いルームウェア姿だ。
統括主任というより、年相応の青年に見えた。
その瞬間、蓮の心臓が変に跳ねる。
蒼真はタオルで髪を拭きながら言った。
「なんでそんな緊張してるんだ。俺の寝相は悪くないはずだから寝てる間に潰したりしないぞ」
「……緊張なんてしてない」
「そうか」
蒼真が少し笑う。
その柔らかい声に、蓮は余計に落ち着かなくなる。
やがて照明が落とされる。
雨音だけが静かに響く。
広いベッドなのに、妙に距離が近かった。
初めてここに来た日を思い出す。
蒼真の体温が分かる。
呼吸音まで聞こえる。
蓮は天井を見つめたまま、眠れなかった。
すぐ隣に寝ている。
それだけで心臓がうるさい。
しばらくして暗闇の中、蒼真が低く呟いた。
「……蓮」
「ん」
「もう少しこっち来い」
「え」
「落っこちそうだ」
どうやら無意識に端へ寄りすぎていたらしい。
蓮が少しだけ近づく。
その瞬間、ふと昔のことを思い出した。
「……そういえば」
「?」
「クロちゃんってなに」
沈黙が落ちた。
蒼真がぴたりと止まる。
暗くて表情は見えない。
だが、空気が妙に固まった。
蓮は続ける。
「最初の日、一回だけ一緒に寝た時」
「…………」
「蒼真、寝言で“クロちゃん……”って言いながら後ろから抱きついてきた」
数秒、完全な静止。
そして。
「は?うそ……」
珍しく、本気で間の抜けた声だった。
蓮は少しむっとする。
「嘘なんかつかない」
「待て」
蒼真ががばっと勢いよく上半身を起こす。
「……俺が?」
「うん」
「抱きついた?」
「かなりしっかり」
「…………」
暗闇でも分かるくらい、蒼真が絶句していた。
蓮は少しだけ面白くなってくる。
あの蒼真がここまで動揺するのは珍しい。
「で、クロちゃんって猫?」
「………………」
蒼真は片手で顔を覆った。
耳まで赤い。
信じられないものを見るみたいに蓮が目を見開く。
「蒼真、今赤くなってる?」
「なってない。どうせ暗いから見えてないだろ」
「なんとなく分かる」
蒼真は深く息を吐いた。
完全に観念した声だった。
「……猫だ」
「ほんとに?」
「ああ」
しばらく沈黙してから、蒼真がぽつりと続ける。
「昔、研究棟の搬入口に住み着いてた野良猫」
蓮は静かに聞く。
「真っ黒で、全然人に懐かなくて」
蒼真の声が少しだけ柔らかくなる。
「でも何故か俺にだけ寄ってきた」
地下施設、眠る時間もない研究棟。
その冷たい世界で、唯一自分へ体温を寄せてきた存在。
蓮はなんとなく理解してしまう。
その猫が、蒼真にとってどれだけ特別だったか。
「……死んだの?」
蒼真は少し黙った。
「ある日、いなくなった」
答えはそれだけだった。
けれど、その短い言葉の奥にある寂しさを、蓮は感じ取ってしまう。
暗闇の中、蓮は小さく呟いた。
「俺、その猫がちょっと羨ましい」
「……なんで」
「蒼真に抱きしめてもらってたから」
「!?」
蒼真の呼吸が止まった。
雨音だけがやけに響く。
やがて蒼真が、低く掠れた声で言う。
「……お前、本当に時々とんでもないこと言うな」
「だって本当だし」
蓮がそう返した瞬間。
不意に腕を引かれた。
気づけば、蒼真の方へ引き寄せられている。
「……蒼真?」
腕は少し震えていた。
背中へ静かに腕が回される。
蒼真に、抱き締められていた。
今度は寝ぼけてなんかいない。
ちゃんと意識のある蒼真が、自分を抱き寄せている。
蓮の心臓が壊れそうなくらい跳ねる。
蒼真は顔を見せないまま、蓮の髪へ額を押し当てた。
「……これでいいだろ」
その声があまりにも優しくて不器用だったので。
蓮は、思わず笑ってしまったままもう何も言えなくなった。




