第57話 高層集合住宅/2053/やさしい声と絆
高層集合住宅の最上層。
I.W.S.C.研究員用の社宅区画。
窓一面に広がる夜景は、まるで都市そのものが発光しているみたいだった。
雨はまだ降り続けている。
ガラス越しに滲んだ街の光が、部屋の白い壁へ淡く反射していた。
玄関の電子ロックが閉まる音。
その瞬間、ようやく四人分の車内の空気から解放された静寂が落ちる。
蒼真は無言でコートを脱ぎ、ソファ脇へ置いた。
────疲れている。
蓮には分かっていた。
研究棟での長時間勤務のあと、あの車内での会話まで重なったのだ。
けれど蒼真は、そういう疲労を絶対に表に出さない。
「……風呂、先入るか」
ネクタイを緩めながら、蒼真が低く言う。
蓮は返事をしなかった。
リビングの中央に立ったまま、じっと蒼真を見ている。
その視線に気づいて、蒼真がようやく顔を上げた。
「……なんだ」
「なんで蒼真も柊も止めるんだよ」
静かな声だった。
けれど昼間より、ずっと感情が深い。
蒼真は数秒黙る。
それから小さく息を吐いた。
「止めるに決まってるだろ」
「なんで」
「お前がまだ十三だからだ」
蓮は眉を寄せる。
「年なんか関係……」
「ある」
蒼真の声は冷静だった。
だが逆に、それが蓮を苛立たせる。
「……またそうやって子供扱いする」
「まだ子供だろ」
「でも蒼真は十三の時にはもう地獄みたいな戦場を見てた」
「!」
その場の空気が止まった。
言葉が出ない蒼真の指先だけが、わずかに動く。
しまった、と蓮は思った。
その話題は、蒼真がほとんど触れたがらない過去だった。
だがもう遅い。
沈黙が部屋へ落ちる。
遠くで雷が鳴った。
蒼真は視線を逸らし、ゆっくり窓際へ歩いていく。
夜景を背負う横顔は、ひどく静かだった。
「……誰から聞いた」
「アレクシス」
「余計なことを……」
低く呟いて、蒼真は額へ手を当てる。
蓮は唇を噛んだ。
責めたいわけじゃない。
ただ、知ってしまったのだ。
蒼真がどれだけ早く“向こう側”へ放り込まれたかを。
「じゃあなんで俺だけ駄目なんだよ」
蒼真は答えない。
蓮は続ける。
「蒼真ばっかり危ない場所行って、柊もアレクシスもそれを止めなくて、俺だけ何も知らないまま守られてろなんて……そんなの」
声が震えた。
怒っていたはずなのに。
気づけば、ひどく苦しそうな声になっていた。
「置いていかれるみたいで嫌なんだよ……」
その瞬間、ほんの少しだけ蒼真の表情が変わった。
痛みに似た顔だった。
蓮ははっとする。
蒼真は滅多にそんな顔をしない。
どれだけ傷ついても、どれだけ追い詰められても、平気そうな顔をしてしまう人間だ。
だから分かってしまった。
今、自分は蒼真を傷つけた。
蒼真はしばらく黙ったあと、静かに言った。
「……置いていくために出て行ってる訳じゃない」
傷ついても疲れていても、それでも蒼真の声は優しかった。
「蓮には普通の場所に居て欲しいだけだ」
「普通って何」
「……」
「こんな監視だらけの場所のどこが普通なんだよ」
蒼真は言葉を返せない。
それが答えだった。
蓮は知っている。
この部屋にも監視システムがあること。
通信は制限され、出入りも記録される。
蒼真の社宅は、今はまだ安全な檻だ。
この先はどうなるか分からないが────。
また、沈黙が落ちる。
激しい雨音だけが広い部屋に響く。
やがて蒼真がぽつりと呟いた。
「蓮は……ずっと閉じ込められてひどい扱いを受けてきた被験体だったろ。今こうして普通に話せて学校にも通えてるってだけでも奇跡みたいなものだ」
「だから俺は、そんなお前が壊れるのを見たくない」
その声が、あまりにも静かな蒼真の本音だったから。
蓮は何も言えなくなる。
蒼真は窓の外を見たまま続ける。
「柊の言ったこと、あれは正しい」
「……」
「戦う適性がある奴ほど早く壊れていく」
都市の光が、蒼真の横顔を青白く照らす。
綺麗だった。
綺麗すぎて、ひどく遠い。
「俺は、何人も見てきた」
感情を削られていく兵士。
壊れる研究員。
人間をやめていく強化人間。
その果てに残る“完成品”、柊一真。
そしてきっと、自分自身も。
蒼真は目を伏せた。
「蓮。お前は知らなくていい」
その言葉がどうしようもなく寂しそうで。
蓮の胸が苦しくなる。
知らなくていい、と言ってはいるが────。
知られたくないのだ。
自分のいる世界を。
自分が浴びてきた血の匂いを。
蓮はゆっくりソファから立ち上がった。
足音だけが静かな部屋へ響く。
蒼真が振り返るより先に、蓮はその服の袖を掴んでいた。
蒼真が目を見開く。
「……蓮」
「俺は」
掠れた声。
「蒼真が一人で壊れていく方が嫌だ」
蒼真の呼吸が止まる。
蓮は離さない。
まだ子供の小さい手で掴みながら、必死に言い募る。
「守られてるだけなんて嫌だ」
「……」
「ちゃんと隣にいたい」
雨音。
遠雷。
夜景の光。
その全部が遠くなるくらい、静かな時間だった。
蒼真はしばらく何も言わなかった。
やがて、ゆっくり視線を落とす。
自分の袖を掴む蓮の手。
震えている。
怖くないわけがない。
それでも離さない。
その事実が、蒼真には痛いほど分かってしまった。
だから余計に、駄目だと思った。
こんな目で見つめられたら、拒絶できなくなる。
またアレクシスに親バカと揶揄されてしまうだろう。
蒼真は観念したように、小さく息を吐いた。
そして────蓮の手を、静かに握り返した。
蓮の目が不安げに揺れる。
蒼真は低く言った。
「……蓮はずるいな」
「え」
「そんな顔されたら、何も言えなくなる」
熱の低い声だった。
けれどその静けさが逆に危うい。
蓮の鼓動が速くなる。
蒼真の手は少し冷たい。
けれどその手に触れられた場所だけが熱かった。
蒼真は苦しそうに目を伏せる。
「俺は、お前には嫌われたくない……のかも知れない」
そのたった一言で雷に打たれたかと思うほど、蓮の胸は強く撃ち抜かれたように痺れた。




