第55話 第零居住区画/2053/凍った風
早朝六時────。
統合世界安全保障評議会────I.W.S.C.極東管区第零居住区画。
人工気象制御された空は、まだ白みきらない鈍色をしていた。
高層建築群の隙間を縫うように、自動走行車両専用レーンを一台の黒いセダンが走っていく。
窓の外では、巨大広告スクリーンが無音でニュースを流していた。
紛争地域の鎮圧完了。
AI統治区域拡大。
新型戦術演算モデル導入。
世界は毎日どこかで壊れていて、そのたびにI.W.S.C.が密かに“修正”していく。
まるで人類全体を、巨大な実験動物のように管理している組織だった。
後部座席で、蓮はぼんやり窓の外を見ていた。
制服姿だがその姿は、どうしても普通の学生には見えない。
他人との距離感を知らない目をしている。
社会へ適応させるため、蒼真が半ば強引に通わせている進学校。
だが蓮は、いまだにそこを“自分がいるべき世界”として認識できていなかった。
笑い声、雑談。
恋愛、将来。
ほんの幼児の頃から脳をいじくられ、毛細血管から血が滲み出てくるきつい薬物投与もさんざん受けて来た。
────長生きなんて、とてもできそうにない。
それにそんなものより先に、蓮の中には常に監視されているという感覚がある。
そしてその感覚は、大抵間違っていない。
ふと視線を前へ向ける。
運転席には黒い戦術ジャケット姿の男。
第零保安部隊隊長、柊一真。
蒼真の頼みで、蓮の学校までの送迎を担当させられている。
I.W.S.C.直属特殊警護部隊所属、蒼真専属警護。
公にはそう記録されている。
だが実際には、彼はもっと別の存在だった。
“強化兵士”。
戦場で生き残るために作られた人間。
薬物投与。
神経改造。
感情抑制処置。
睡眠制御。
反応速度強化。
人間を兵器へ近づけるための、あらゆる非人道的処置を経て完成した個体。
感情抑制処置済み。
資料上では、そう追記されている。
だが蓮は時々思う。
本当に感情が無い人間なら、あんな目はしない。
柊は滅多に喋らない。
必要最低限しか動かない。
まるで自分自身を、常に制御しているみたいだった。
特に蒼真の側では。
それが蓮にはずっと気になっていた。
「……なあ」
前を向いたまま声をかける。
柊は反応しない。
だが無視ではない。
聞いている。
それが分かる程度には、蓮もこの男に慣れていた。
「あんたってさ」
朝の淡い光が、フロントガラス越しに柊の横顔を照らす。
端正というより鋭利な顔立ちだった。
傷一つない横顔なのに、どこか“壊された痕”のような静けさがある。
「昔から蒼真の護衛やってんの」
数秒の沈黙。
やがて低い声が返る。
「七年です」
蓮は少し驚く。
七年。
蒼真はまだ二十代前半だ。
つまりほとんど、人生の長い時間をこの人物と一緒にいることになる。
「……長いな」
「統括主任が十六の頃から警護任務についています」
統括主任。
柊は蒼真をそう呼ぶ。
その呼び方が、蓮は少し嫌だった。
勝手な解釈だが、特別な感じがする。
「あんたも、蒼真のこと好きなの。アレクシスみたいに」
ぽつり、と思わず本音が漏れた。
半分は嫌味だった。
だが次の瞬間、車内の空気が静かに凍った。
柊の視線がバックミラー越しに向く。
黒い瞳。
感情が無いはずなのに、妙に深い色をしている。
「……どういう意味ですか」
声は平坦だった。
だが蓮は直感する。
踏み込んだ。
「別に。なんか、あんただけ変だから」
「変とは」
「感情なんてもう無いくせに、蒼真のことになると反応する」
そこで初めて柊が完全に沈黙した。
エンジン音だけが続く。
都市高速の光が無機質に流れていく。
やがて柊は視線を戻した。
「任務だからです」
「嘘つけ」
蓮は窓へ肘をつきながら呟く。
「任務だけであんな目はしない」
その瞬間ほんの僅かに、柊の指先が動いた。
ハンドルを握る手。
強化処置された兵士の手。
人を殺すために鍛えられた指。
けれど今だけ妙に人間臭く見えた。
蓮はその厳しい横顔をじっと見つめる。
そして不意に言った。
「……俺にも教えてくれよ」
「何をですか」
「戦い方」
朝日が高層ビル群の隙間から差し込む。
白い光が車内を横切り、一瞬だけ蓮の横顔を照らした。
その目は冗談を言っている顔ではなかった。
柊は答えない。
蓮は続ける。
「蒼真、ほっといたらあっさり死にそうだから」
あまりにも静かな声だった。
だからかえって重く響いた。
「見てれば分かる」
「自分のこと、全然大事にしてない」
柊の目が、ほんの僅かに細くなる。
「統括主任は死にません」
「そういう言い方する時点で信用できないんだよ」
蓮は吐き捨てるように笑う。
「あんたも分かってんだろ」
車内は沈黙に沈んだ。
車は都市高を降り、学生街へ入っていく。
車窓越しに、制服姿の学生たちが見え始める。
一見平和そうな朝。
けれど蓮だけが、まるで別の世界に立っているようだった。
「……守りたいんだ」
ぽつり、と蓮が言う。
「俺も、蒼真のこと」
柊は何も返さない。
ただ前を見ている。
感情抑制済みの兵士。
命令に従うための強化人間。
本来なら、誰かを“守りたい”などという感情から最も遠い存在。
けれど、その沈黙だけが妙に長かった。
やがて柊は重い口を開いて低く言った。
「やめておけ」
敬語を使うのは止めていた。
「なんで」
「君は適応する」
蓮が訝しげに眉を寄せる。
柊の声は淡々としていた。
ただ事実を述べている。
「戦闘を覚えれば、君はそちら側へ行く」
「そちら側?」
赤信号で車が止まる。
朝日が差し込み、柊の横顔を白く照らした。
その目は静かだった。
静かすぎて、底が見えない。
「人を壊す事に悦びを覚える側だ」
その言葉に、蓮は一瞬だけ息を止めた。
柊一真は、きっと本当のことを言っている。
何の確信もないが、蓮ははっきりとそう思った。




