第54話 TOKYO DEEP-9/2053/憂鬱な月
第九演算室にて。
蒼真は学校側から送られてきた行動報告書を読み、深く頭を抱えていた。
「“他者とのコミュニケーション意欲が著しく低い”……」
ページをめくる。
「“一部生徒に恐怖心を与える可能性”……」
さらにめくる。
「“視線圧が強い”って何だよ……」
「的確だと思うけど」
イヴェットが珈琲を片手に笑う。
蒼真は机へ突っ伏した。
「社会性形成どころじゃない……」
「そもそも期待したあなたが悪い」
イヴェットは淡々と言う。
「蓮は普通の子供じゃないもの」
その言葉に、蒼真は何も返せなかった。
その時、演算室奥の巨大モニターが淡く明滅した。
E.D.E.Nが眠る部屋。
白い演算光が、まるで呼吸みたいに脈打つ。
蒼真は無意識にそちらを見る。
直後、端末へ通知が走った。
同期対象:神崎蓮
感応波形異常増加。
蒼真の眉が寄る。
その夜。
蓮は一人、最下層通路を歩いていた。
深度六百メートル。
冷たい白色灯。
静かな機械音。
巨大なガラス壁の向こう。
E.D.E.Nの演算核が、暗闇の中で白く脈動している。
蓮は足を止めた。
最近、声が聞こえる。
耳ではない。
もっと深い場所。
脳の奥へ直接触れてくるみたいな感覚。
────あの男を信用してはいけない。
E.D.E.Nの静かな声。
機械なのに、不思議と感情が混じっていた。
────彼の脳は既に評議会によって処置済み。いずれ彼は蒼真を傷つける。
蓮の瞳が揺れる。
アレクシス。
蒼真へ触れた男。
あの夜。
車内での、強引なキス。
思い出した瞬間、胸の奥が黒く濁る。
嫌だった。
蒼真が他人に触れられるのが。
奪われるのが。
蓮は静かにガラスへ手を触れた。
冷たい。
その向こうで、E.D.E.Nの光がゆっくり脈打つ。
まるで応えるみたいに。
「……俺が守る」
小さな声。
だが、その瞳は静かに決意していた。
頭脳だけでは足りない。
知識だけでは守れない。
もし本当に誰かが蒼真を傷つけるなら。
その時、自分は躊躇なくそいつを壊せる側でいたい。
蓮はゆっくり目を閉じる。
脳裏に浮かぶのは、疲れた顔で笑う蒼真だった。
いつも無理をしている。
誰にも頼らない。
壊れそうなのに、平気なふりをする。
だから守りたいと思った。
自分だけは絶対に、あの人の側を離れないと。
「蒼真」
ほぼ蒼真専用の研究室と化している第九演算室に響く声。
顔を上げる。
蓮がいた。
黒いジャケット姿。
額に少し汗が滲んでいる。
「……どうした?」
「頼みがある」
真っ直ぐな目。
蒼真は何とも言えない嫌な予感がした。
「戦闘訓練、受けたい」
蒼真は額に手を当てる。
「急に何で……」
「必要だから」
「必要って、蓮……」
蓮は数秒黙ったあと、低く言った。
「守れるようになりたい」
その一言だけで、蒼真は理解してしまう。
誰を守りたいのか。
蓮は視線を逸らさない。
「俺、頭だけじゃ、E.D.E.Nとの同期だけじゃ無理だって分かった」
ぽつりと寂しげに呟く。
「蒼真を、奪われる」
蒼真の胸がざらつく。
雨の夜。
車内のキス。
あれ以来、蓮は変わった。
静かに、だが決定的に。
所有欲を隠さなくなった。
「……蓮、それは単に保護者に対する感情で」
「蒼真を守れるのは、俺だけでいい」
蒼真の言葉を鋭く遮る低い声。
十三歳とは思えないほど静かな執着。
蒼真は思わず息を呑む。
その瞬間、背後から別の声が落ちた。
「却下だ」
振り返る。
ルシアンだった。
ロングコートの裾を揺らしながら近づいてくる。
灰色の瞳が、蓮を冷たく見下ろす。
「お前に戦闘技術まで与えたら、本当に手が付けられなくなる」
「別にあんたに許可される必要は無い」
蓮が即答する。
空気が凍る。
ルシアンは薄く笑った。
「その目だ」
「……何」
「人を殺した目をしてる」
沈黙が落ちる。
だが蓮は否定しなかった。
代わりに静かに言う。
「必要なら殺す」
蒼真の背筋が冷える。
その“必要”の今の基準が、自分だと分かってしまったから。
ルシアンは小さく息を吐いた。
「ほらな」
呆れた声。
けれど次の瞬間。
彼はちらりと蒼真を見る。
その視線だけが妙に優しかった。
「……お前、本当に厄介な奴にばかり好かれるな」
こっそり溜め息をつきつつ、蒼真は返事ができなかった。
蓮の視線が痛いほど絡みついている。
誰にも渡さない。
そう言われているみたいだった。




