第46話 高層集合住宅・ベッドルーム/2052/黒猫の朝
夜は、いつ明けたのか分からなかった。
目を覚ましたとき、蓮は一瞬、自分がどこにいるのか理解できなかった。
知らない天井。
柔らかすぎる寝具。
そして────背中に残る、ぬくもり。
「……っ」
反射的に身体を起こす。
振り返ると、すぐそこに蒼真がいた。
まだ熟睡している
あまりにも、無防備に。
昨夜のまま、距離はほとんど変わっていない。
腕だけが、今は緩く外れていた。
蓮はしばらく、その寝顔を間近に見下ろしていた。
(……こんな顔、するのか)
普段の蒼真からは想像できないほど、穏やかだった。
子供のような寝顔。
張り詰めた気配も、綺麗だが冷徹な視線もない。
ただの────ひとりの、人間。
その事実に、妙な違和感を覚える。
同時に胸の奥が、わずかにざわついた。
理由は分からない。
分かりたくもない。
けれど視線を逸らせなかった。
指先が、思わず動く。
触れるつもりはなかった。
ただ────確かめたかっただけだ。
そこにいるひとが、本当に現実なのかどうか。
そっと、頬に触れる。
滑らかで、あたたかい。
「……何してるんだ」
低く、かすれた声。
蓮の指が止まる。
いつの間にか目を開けていた蒼真が、静かにこちらを見ている。
「起きてたのか」
「今起きた」
短い返答。
けれど、その視線は逸れない。
至近距離で、ぶつかる。
逃げ場がない。
ほんの少しでも動けば、触れてしまう距離。
蓮はゆっくりと手を引こうとした。
だがその手首が、掴まれる。
「……っ」
強くはない。
けれど、確実に止める力。
蒼真はそのまま、蓮の手を見下ろした。
「……手、冷たいな」
ぽつりと、呟く。
まるで、それが問題であるかのように。
「離せ」
「嫌だ」
即答だった。
驚くほど、迷いのない声。
蓮は一瞬だけ言葉を失う。
その隙を逃さず、蒼真はゆっくりと身を起こした。
距離が、さらに近づく。
掴まれた手が、引き寄せられる。
なぜか、力が入らない。
蒼真の指が、蓮の手を包み込む。
体温が、じわりと移る。
「……慣れてないだろ。寝られなかった?」
何に、とは言わない。
それでも意味は分かる。
蓮は眉を寄せる。
「だからなんだ」
「別に」
淡々とした声音。
だが、あたたかいその手は離れない。
むしろ、ほんのわずかに強くなる。
「無理に慣れる必要も、離れる必要もないってだけ」
「蓮の好きにしてて良いんだ」
静かな言葉。
押しつけるでもなく、説得するでもなく。
ただ、蒼真の思う事を正直に述べている。
蓮は視線を逸らした。
いつの間にか、冷えていた蓮の手もあたたかくなっていた。
窓の外。
朝の光が、昨日の夜景の余韻を押し流していく。
世界は、もう次へ進んでいる。
それなのに。
この空間だけが、蓮だけが、昨日に取り残されたみたいだった。
「……好きにする……。……意味が分からない」
「急にあそこから自由になったんだ。まだ今は分からなくていいよ」
すぐに柔らかい声が返ってくる。
あまりにも簡単に。
蓮は小さく息を吐いた。
手を振り払うことは、しなかった。
蒼真は、それ以上何も言わなかった。
ただ、同じように窓の外を見ている。
繋がれたままの手。
離れない距離。
言葉はなくても、何かが確かにそこにあった。
不安定で、曖昧で……。
なのに、妙に心地いい。
(……厄介だな)
蓮は目を細める。
こんな感覚は、不要なはずなのに。
排除すべき感情のはずなのに。
どうしてか。
少しだけ────、失いたくないと、思ってしまった。
その自覚に、軽く舌打ちする。
自分から、手は離さないまま。
蒼真も、何も言わないまま。
朝の光が、二人を静かに照らしていた。




