第45話 高層集合住宅・ベッドルーム/2052/Crystal cage
静寂は、音のない淋しいもののはずなのに。
この部屋のそれは、どこか満ち足りているように感じられた。
都市の光は、ガラス越しに遠く瞬いている。
けれどその煌めきも、ここではやけに遠い。
蓮は、ようやく視線を外した。
自分の内側に芽生えかけているものから、目を逸らすように。
「……寝るとこは」
短く問う。
感情を切り離したような声だった。
蒼真は軽く肩をすくめる。
「どこでも好きに使っていいよ。部屋は余ってる」
そう言いながらも、歩き出した先はひとつの扉だった。
迷いのない足取り。
開かれた先にあったのは、過剰なほどに広い寝室。
中央には、ひとりで使うには明らかに不釣り合いな大きさのベッドが置かれている。
白いシーツが、無機質なまでに綺麗に整えられていた。
蓮は一瞬だけ足を止めた。
「……一人用じゃないだろ、これ」
「さあ。設計者の趣味じゃないか?」
他人事のように答える蒼真。
その声音にわずかな疲労が混じっているのを、蓮は聞き逃さなかった。
よく見ると、いつも落ち着いている瞳も精彩を欠いている。
沈黙が落ちる。
選択肢は、いくらでもあるはずだった。
別の部屋を使うこともできる。
距離を取ることもできる。
けれど────。
「……ここでいい」
先にそう言ったのは、蓮だった。
理由は自分でも分からない。
そもそも自我を持つことを許されてこなかった。
ただ、今は────蒼真と離れることの方が、不自然に思えた。
蒼真は何も言わなかった。
否定も、肯定もせず、ただ小さく頷くだけ。
「シャワーは明日の朝にしよう。パジャマはこれ。今日は強行軍だったんだ……もう限界かも」
大人しく蒼真の言葉を聞き、手渡された寝巻に蓮は手早く着替えた。
「……おやすみ」
「……」
蒼真に背を向ける形で、ベッドに入る。
広すぎるはずの空間が、やけに狭く感じた。
穏やかな呼吸の音が、聞こえる。
わずかな寝返りの気配さえ伝わる。
触れていないのに、距離が近い。
(……落ち着かない)
蓮は目を閉じたまま、わずかに眉を寄せる。
こんな感覚は知らない。
監視下の眠りとも、拘束された安静とも違う。
もっと曖昧で、不確かなもの。
でも────嫌ではなかった。
いつの間にか、意識はゆっくりと沈んでいく。
深い眠りに落ちる、その直前。
────微かな気配が、動いた。
背後で、布が擦れる音。
そして、不意に、背後から蒼真の腕が回る。
「……っ」
息が詰まる。
反射的に身体を強張らせた。
だがその力は、驚くほど弱かった。
拘束するでも、押さえつけるでもない。
ただ、そこに“触れている”だけの、曖昧な抱擁。
背中に感じる体温。
一定のリズムで上下する呼吸。
耳元に、かすかにかかる吐息。
「うーん……クロちゃん……」
小さく何かの名前を呼ぶ。
「……?」
代わりに、腕の力がほんのわずかに強まった。
寝ぼけているだけだと、すぐに分かった。
おそらく、ペットの猫かなにかと間違えているのだろう。
「……おい」
振りほどこうと思えば、簡単にできる弱い拘束だった。
しかし蓮の手は、なぜか動かなかった。
無意識のうちに、その腕に触れていた。
そこに“人間”がいることを、確かめるように────。
(……どうして、離れたくないんだろう)
心の中でだけ、呟く。
声にはしない。
音を立てててしまえば、この均衡が壊れる気がした。
背中越しのぬくもりが、じわじわと侵食してくる。
冷えきっていたはずの感覚が、少しずつ解けていく。
こんなものに、慣れてはいけない。
あくまで被験体としてでしかない自分の立場を、理解しているのに。
目を閉じたまま、蓮はわずかに力を抜いた。
逃げることも、拒むこともせず。
ただ────そのまま、受け入れる。
規則的な呼吸が、耳元で続く。
抱き寄せる腕は、決して強くないのに、どこか確かな意志を感じさせた。
まるで大切な物を扱うかのように。
(……一体何なんだ、これは)
問いは、眠りに溶ける。
答えは、どこにもないまま、夜は静かに更けていった。
広すぎたはずのベッドは、心地いいぬくもりに満たされていた。




