第38話 VX-91《AURORA》機内/日本への復路
扉が閉じたあとも、桐生蒼真の感覚はすぐには現実へ戻らなかった。
AXIOMの最深層で消失していた“距離”“時間”の概念が、ゆっくりと元に戻っていく。
踵を返して廊下を歩きだした。
あの緩やかな曲線は、来たときよりも短く感じられる。
あるいは────彼の内部で、何かの基準が書き換えられたのかもしれない。
エレベータが上昇する。
重力制御が段階的に解放され、身体に“重さ”という現実が再び与えられる。
それは不快ではない。
むしろ、自我を明確にするためのノイズとして、適切だった。
やがて、地上に到着する。
雪と氷に閉ざされた南極大陸────。
はげしく白い、吹雪。
AXIOMの内部では消失していた“現実の世界”が、一気に押し寄せる。
すべてが不均質で、非効率で、────自然だった。
蒼真は雪の反射に一瞬だけ目を細め、ゆっくりと白い息を吐いた。
(来るときは普通の飛行機で何回も乗り継いだけど、帰りは早く日本に着きそうだ)
滑走路は氷床を削り出して形成されている。
その上に待機していたのは、移送用軍用機だった。
2050年代におけるI.W.S.C.制式、長距離戦略輸送機VX-91《AURORA》。
表向きには、存在しない機体とされている。
登録はすべて分散化され、個別識別は量子署名によってのみ行われる。
全長七十二・四メートル、主翼幅六十八メートル。
機体構造は従来の航空工学的発想から完全に逸脱している。
外殻は三層構造の適応型複合装甲。
最外層は電磁波吸収および散乱機能を持つ可変メタマテリアル。
状況に応じて反射率と屈折率を動的に変化させ、レーダー像そのものを書き換える。
中間層は熱拡散ネットワーク。
機体全体に微細な熱流路が張り巡らされており、発生した熱エネルギーを瞬時に分散・均質化する。
その結果、この機体は“温度差が存在しない”。
内層は高密度構造フレーム。
自己修復機構を内蔵し、微細損傷は飛行中に補完される。
主翼は位相可変翼で、空力面そのものが固定されているのではなく、ナノスケールのアクチュエータ群によって表面形状が連続的に変形する。
亜音速域では揚力効率を最適化し、超音速域では衝撃波の発生を制御する。
結果としてこの機体は、“速度域”という概念に縛られない。
推進系は複合型。
基幹は超伝導タービンエンジンだが空気取り込みと同時にプラズマ化処理を行い、燃焼効率を極限まで高める。
高度上昇に伴い、推進方式は電磁加速へと移行。
機体後部に内蔵された線形加速装置が、イオン化された推進粒子を後方へ射出する。
推力の大半はこの段階で賄われる。
燃料消費は極端に低く、航続距離は理論上無制限に近い。
操縦系統は完全冗長化となっている。
機体制御の中枢には戦略AIが搭載されており、航路選定、脅威回避、機動制御のすべてを自律的に処理する。
人間の役割は“操縦”ではない。
最終判断の承認と、例外的状況における意思決定────。
それだけで十分とされている。
機内環境は外界と完全に隔絶されていた。
振動は相殺され、爆音は構造体内部で吸収される。
搭乗者は重力補正フィールドにより、常に最適な身体状態へと維持された。
長時間移動による疲労は発生しない。
……機内は、静寂に支配されていた。
外界の風も、推進機構の唸りも、すべては減衰され、存在しないものとして処理されている。
操縦席は半ば開放されていた。
完全な隔壁ではないが不用意な干渉を許さない、薄く透明な壁が存在している。
前方には、二人の操縦士が座っている。
操作桿には触れていない。
視線も計器に固定されてはいない。
それでも機体は、寸分の狂いもなく航路を維持している。
人間はここで、“在席していること”そのものが役割だった。
短い沈黙ののち、操縦士が口を開く。
「到着予定時刻まで、残り六時間」
声に抑揚はない。
報告は感情を伴わない形式で統一されている。
蒼真はわずかに頷く。
「……よろしくお願いします」
操縦士は一瞬だけ言葉を選ぶ。
規定にはない間。
「了解」
それだけを返した。
蒼真は手元に視線を落とす。
評議会から譲渡されたE.D.E.N計画の資料だ。
情報は滑らかに脳に流れ込み、思考と衝突することなく統合されていく。
────その最中だった。
かすかな違和感を感じた蒼真は顔を上げる。
極めて微細な、だが無視できないそれ。
意識を資料から切り離す。
代わりに、周囲の構造へと向けた。
ここの機内環境、重力補正、振動制御────。
それらはすべて、単なる快適性のために存在しているわけではない。
思考効率の維持や意思決定の安定化。
AIの性能。開発者の癖────。
蒼真はわずかに視線を上げる。
空間そのものを観測するように。
この機体の制御系、根底にある設計思想……。
(……同じだ)
声には出さない。
だが結論は明確だった。
かつて、自分が構築したモデル。
意思決定過程からノイズを排除し、最短経路へ収束させるための理論。
それが────ここにある。
かつて試作したものより精度が足りないし、分岐処理が粗い。
“思考”ではなく、“処理”に留まっている。
でも、なぜ。
蒼真は、過去の断片を引き出す。
どこにも公開せず破棄したはずの基礎理論────未公開モデルなのに。
アクセス権限は厳重に制限されていた。
誰が、これを……。
その問いは、すぐに解に到達する。
最深層、七つの歪み────セブン。
あの場にいる存在であれば、例外は成立する。
むしろ────それ以外の答えは無い。
つまりこの機体は、単なる軍用輸送機ではない。
E.D.E.N計画への抜擢へ至る過程で強引に切り出された、蒼真の思考の一部。
「……」
(無断で盗用されてるとは。とんでもない毒蛇どもの巣だな……)
蒼真がすぐにそれに気が付く事もどうせ織り込み済みなのだろう。
動揺を表に出さないように努めて、蒼真は再び資料へと視線を戻す。
E.D.E.N────人類の認識構造を書き換える計画。
そして、その前段階として既に運用されている、意思最適化技術。
軍事、輸送、制御。
用途は異なるが根幹は同じだ。
あの場で下された決定は、まだ実行されていないのではない。
すでに、現実へと展開されている。
蒼真は目を閉じる。
ただ一つ、気になることがある。
AHIと呼ばれ、E.D.E.N開発のために不当に拘束、日々過酷な人体実験にさらされているらしい子供たち。
中でも特筆されているのは────AHI-09。
存在そのものを秘匿されている、十二歳の被験体。
長期隔離環境下で育成された、特殊適応個体である。
必要最低限の情報のみの資料は簡潔だった。
意図的に、削減されている。
それは隠蔽ではない。
つまり────実際に観察しろ、という意味だろう。
(一切の自由も無く、意思も痛みも統制された人間なんて……ただ生きているだけの、AIなんかよりよほど人工的で冷たい機械になってしまうんじゃないか)
可能性の枝が、一斉に展開される。
介入するか、観察に留めるか────。
蒼真は結論に至る。
────じぶんの目で直接、確認する。
理由は単純だった。
資料は完全ではない。
人と人に必要なのは、観測と対話だ。
AHI-09という個体が、E.D.E.Nにとって“単なる部品でしかない”のか。
それとも────それ以上の何かとなるのか。
(第13研究棟────そこに答えがある)
ふと外を見ると、南極の白はとうに眼下から消えていた。
機体VX-91は成層圏上層を巡航し、日本列島へと向かっている────。




