第32話 無音侵蝕
コンクリートの壁面は、どこまでも無機質に続いていた。
足音が、遅れて反響する。
規則的だが、微かにずれている────この迷宮そのものが、どこか現実と位相を外しているようだった。
やがて通路はゆるやかに開け、円形に近い空間へと移行する。
天井は今までよりわずかに高いが、大きく裂けて崩落しそうなその隙間から上階の鈍い白光が差し込んでいる。
神崎はそこで、ようやく足を止めた。
蒼真はそっと床に降ろされる。
膝がわずかに揺れ、支えを失いかけた身体を、神崎の手が無言で引き戻した。
「座って、左腕を出せ」
短く命じる声音に蒼真は反論しかけて、やめた。
無駄を挟む余地がないと分かってしまったからだ。
冷たい床に座り込む。
その前に、神崎が片膝をついた。
血と埃に汚れてなお整ったその顔が、やけに眩しく見えた。
左腕を出して、改めて自分でも見てみる。
裂けた皮膚の隙間から、乾ききらない血がじわりと滲んでいる。
歯形は生々しく残っていたが、肉を抉るほど深くはない。
「……なんだ、大したことないな」
反射的にそう言うと、神崎の眉がわずかに寄る。
「判断は俺がする」
淡々とした否定だった。
そのまま、蒼真の手首を取る。
指先はそっと静かに触れてくる。
それが逆に、手当てを断るという逃げ場を完全に奪う。
神崎は突然コートを脱いでその下の黒いシャツに手をかけた。
ためらいもなく袖口を掴み、そのまま引き裂く。
布が裂ける乾いた音が、やけに大きく響いた。
黒いシャツの下から白く覗いた肌と、筋張った腕の線。
その一瞬のコントラストに、なぜか目を奪われた。
裂いた布を、神崎は無造作に整える。
まず、裂傷の周囲を確かめた。
指が触れるたび、痛みとは別の感覚が走る。
「……っ」
小さく息を呑むと、神崎の手が止まる。
「痛むか」
「……いや、平気」
即答した声が、少しだけ掠れた。
神崎は何も言わず、再び動き出す。
黒い布を包帯のように巻き、圧を調整し、滲んでくる血を抑えていく。
「気休めでしかないが、何もしないよりマシだろう」
最後に、歯形の上を覆うように布を重ねる。
指先が、ほんの一瞬だけ長く留まった。
ただ触れているのか、傷の具合を確かめているのか。
その境界が曖昧になる。
「……さっきより、動かしやすい」
裂傷が空気に晒される事がなくなったせいか、途端に痛みが和らいだ気がする。
結び目を締めながら、それを聞いた神崎が言う。
「無理をすれば開く」
「お前がいるなら、大丈夫だろ」
軽口のつもりだった。
だが、言った瞬間に後悔する。
神崎の手が、ぴたりと止まった。
沈黙が落ちる。
さっきまで充分にあったはずの二人の間の空間が、急激に狭まる。
ゆっくりと、神崎が顔を上げた。
その視線は、至近距離でじっと蒼真の瞳を見ていた。
「蒼真」
名前を呼ぶ声が、やけに穏やかだった。
「生きることを諦めるな。例え、何があっても」
命令にも似ているのに、どこか縋るようでもあった。
蒼真は一瞬、言葉を失う。
鼓動が、妙にうるさい。
「……いきなり、なんだよ」
ようやく返した声は、少しだけ柔らかくなっていた。
神崎はそれを聞いて、ほんの一瞬だけ表情を緩めた。
蒼真はなぜか────見てはいけないものを見た気がした。
「分からなくていい」
静かに言う。
「お前は先に進め」
「……だったら、お前はどうするんだ?」
聞き返した問いが、闇の中に落ちる。
神崎は何も言わなかった。
ただ、結び終えた布に軽く触れて、確かめる。
その指先が離れるまでのわずかな時間が、やけに長く感じられた。
遠くの白い光の差し込む空間の中で、二人だけがここに取り残されている。
外界は遠く、時間は歪み、この場所だけが異様に静止している。
だがそれも、長くは続かない。
全ては、もう動き出している。
流れた血、選んだ選択────まだ生きている者のすべてを試すように。
ここに留まるわけにはいかない。
神崎は立ち上がり、蒼真へ手を差し出した。
「行くぞ」
その手を取るか、どうか。
それすらも、この世界ではひとつの“選択”だった。




