第125話 私立黎明統合学院/2055/風の吹く方へ、心の羅針盤
「神崎」
午後の授業が終わり、帰りのホームルームまであと十分ほど。
教室にはまだ雑談が残り、窓から吹き込む春風がカーテンをゆるく揺らしていた。
蓮はいつも通り窓際で文庫本を開いている。
教室の喧騒など存在しないものとして扱う姿勢は今日も変わらない。
そこへ机を指先で軽く叩く音がした。
「今日、帰り付き合って」
蓮は視線だけ上げる。
「嫌だ」
「まだ行き先も言ってないぞ」
「どうせ断る」
「ひど」
悠馬は肩を落としたふりをしたあと、何事もなかったように続けた。
「ゲーセン」
「行かない」
「本屋」
「一人で行け」
「映画」
「見ない」
「じゃあカラオケ」
「歌わない」
「ボウリング」
「投げない」
「水族館」
「魚は逃げないぞ。一人で行け」
「それじゃ意味ねぇじゃん……」
教室のあちこちから笑い声が漏れた。
隣の女子が肘で友人を小突き、小さく囁く。
「また柊くんだ」
「神崎くん相手によく折れないよね」
悠馬にはまるで聞こえていない。
蓮だけを見ている。
「じゃあコンビニ」
「行かない」
「新作アイス奢る」
「興味ない」
「限定プリン」
「食べない」
「高級シュークリーム」
「甘い物は嫌いじゃない」
「おっ」
悠馬の顔がぱっと明るくなる。
蓮はしまったと思った。
「好きなんじゃん」
「嫌いじゃないだけだ」
「じゃあ決まり」
「決まってない」
「ほら、今ちょっと会話弾んだ」
「弾んでない」
「ほらまた返事した」
「……」
蓮は本を閉じた。
これ以上返すほど相手が喜ぶ。
無視が最適だと判断する。
ところが悠馬は腕を組み、感心したように何度も頷いた。
「なるほど」
「……何だ」
「神崎攻略法、分かったわ」
「そんなもの、ない」
「あるある。無視されても話し続ければ、そのうち返事してくれる」
「お前、余程ヒマなんだな」
「また返事した」
「…………」
蓮は額を押さえた。
初めてだった。
会話を打ち切るために黙ったのに、それすら材料にされる人間は。
悠馬は満足そうに笑う。
陽だまりそのものみたいな笑顔だった。
窓から差し込む春の光をそのまま形にしたような、眩しさを押しつけない明るさがある。
切れ長の目元には涼しさが宿り、笑えば少年らしい柔らかさへ変わる。
整った輪郭に風が短い黒髪を遊ばせ、その姿だけ切り取れば青春映画の主人公みたいだった。
女子生徒達が密かに視線を送る理由も分かる。
けれど本人はそんなことに無頓着で、興味を示す相手は教室中で最も愛想のない蓮だけだった。
「なあ」
「いい加減にしろ」
「友達一人くらいいても困らなくね?」
「必要ない」
「俺が困る」
「…………」
「お前が一人だと何となく気になる」
その言葉だけは妙に飾りがなかった。
蓮は答えに詰まる。
理由になっていない。
利益もない、合理性も存在しない。
なのに悠馬は、それで十分だと思っている顔をしていた。
その姿勢は蒼真とも柊とも違う。
誰かを守る義務でもなく、研究対象への興味でもない。
ただ隣にいてみたい。
それだけで人へ近づける人間がいる。
蓮の知らない世界だった。
「だからさ」
悠馬が制服のポケットから財布をひらひら振る。
「今日だけでいいから付き合えよ。ゲーセン一回、本屋十分、最後にアイス食ってジュース飲んで帰る。俺の奢り。それで解散」
「……」
「これでもかなり譲歩した」
「最初から全部行くつもりだったのか」
「もちろん」
呆れて蓮は思わず小さく息を漏らした。
それなのに悠馬は嬉しそうに笑う。
「今、笑いそうになっただろ」
「気のせいだ」
「見逃さなかったぞ」
「錯覚だ」
「じゃあ確認する」
「……」
「放課後、来れば分かる」
蓮は返事をしなかった。
断るつもりだった。
そう決めていたはずなのに、ホームルームが終わって席を立つ頃になっても、不思議と悠馬の言葉だけが頭の片隅へ残っている。
窓の外では、桜の花びらが校庭へ静かに降り積もっていた。
教室の後ろでは友人同士が笑い合い、部活動へ向かう生徒達が慌ただしく廊下を駆けていく。
蓮はその喧騒を眺めながら、自分には無縁だったはずの放課後という時間を初めて意識する。
そして教室の前方では、鞄を肩へ引っ掛けた悠馬が、こちらを振り返りもせず親指だけで廊下を指した。
「神崎、置いてくぞ」
まるで蓮が来ることを疑っていない口ぶりだった。
その妙な自信が、蓮には少しだけ癪だった。
だからこそ立ち去る背中を見送りながら、「今日は断って終わらせる」と心の中で繰り返し、それでも足はほんのわずかに遅れて教室の外へ向かっていた。




