第121話 居住区画棟/2055/凍てついた風と、夜に編む糸
柊は頷いたまま動かなかった。
蒼真の指先はまだ制服の袖を離していない。
細く白い指が布地を頼るように掴んでいるだけなのに、その僅かな力加減が胸の奥へ深く届く。
これまで幾度となく任務で命を預け合ってきた。
爆炎の中も、銃弾の雨も、崩れ落ちる建物の下も潜り抜けてきた。
そのどの場面よりも、この静かな部屋のほうが柊には危うかった。
蒼真は熱を孕んだ瞳で見上げている。
疲労と発熱と神経活性因子切れで潤んだ銀藤の眼差しは、普段の理知的な光を薄く霞ませ、その奥に隠していた弱さだけを浮かび上がらせていた。
そんな顔を向けられたのは、これが初めてではない。
けれど、何度見ても慣れることはなかった。
護衛は距離を守るものだ。
それが柊の信条だった。
踏み込みすぎれば判断は鈍る。
感情は任務を狂わせる。
そう教えられ、そう生きてきた。
ところが蒼真は静かに微笑み、その微笑みにはどこか困ったような色が混じっていた。
「……そんなに難しい顔、するな」
掠れた声だった。
「お前は悪くない」
その一言が、柊の胸へ静かに落ちる。
責められても命じられてもいない。ただ、信頼されているだけだった。
それだけのはずなのに、長い年月をかけて積み重ねてきた理性に、また細い亀裂が走る。
実は柊は、二人が退院した直後に同じ病院で、感情のクリーニング処理を受けていた。
今までより更に感情というものは鈍くなり、喜怒哀楽や情動は著しく制限されるようになった。
でも、この人を守りたい。
その願いは昔から変わらない。
それでも最近は少し違う。もっと普通に笑って、眠って、無茶せず自分のために生きてほしいと願う。
その願いは護衛として抱くにはあまりにも私的だった。
蒼真は自ら白衣のボタンを外して、脱ぎ捨てる。
白いシャツの襟もとも緩めて、痩せた鎖骨から白い胸が露わになった。
…………触れたい。
柊はただそう思った。
柊が顔を寄せる。
吐息が首筋へ落ちる。
「っ……」
反射的に蒼真の肩が跳ねた。
その反応に、柊の喉が小さく動く。
耐えている。
「……柊、噛むなよ」
蒼真はそう言った。
けれど声が弱い。
柊は気づいている。
本気の拒絶ではないことを。
柊の額が、蒼真の肩口へ落ちる。
熱い呼吸。
服の擦れる音。
耳元で低く息を吐く気配だけで、蒼真の思考がぐらつく。
……もっと、濃いアンカーが欲しい。
不意に、柊の歯が蒼真の首筋へ軽く触れた。
「……っ!」
甘噛みのような、ほんの一瞬の接触。
だが蒼真の身体はびくりと震えた。
鋭い痛みではない。
むしろ熱だった。
ぞわり、と背骨を這い上がる感覚。
柊はその反応に、自分でも驚いたように動きを止める。
本当に噛みついてしまう寸前で理性を引き戻した獣のように。
「……すみません」
低い声。
蒼真の肩へ額を押し当てたまま、柊は苦しそうに息を吐く。
「お前……」
蒼真はうまく言葉が出ない。
首筋へ残った熱が消えない。
心臓が異常なくらい速い。
柊がゆっくり顔を上げる。
黒い瞳が近い。
その視線には欲望があった。
隠しきれないほど濃いのに、同時に必死で抑え込まれている。
その視線に捕まって、蒼真はとうとう目を逸らせなくなった。
「……柊」
名前を呼ぶ。
それだけで柊の瞳が揺れた。
蒼真はそこで気づいてしまう。
この男は、自分に名前を呼ばれるだけで理性が削れている。
その事実が妙に胸を熱くした。
「そんな顔、するな」
蒼真が掠れた声で言う。
「……今さらです」
低い声だった。
柊の指が、ゆっくり蒼真の白い肌へ触れる。
そのまま、どさりとベッドに押し倒された。
硬くて、少し荒れている柊の指。
なのに触れ方だけは驚くほど丁寧で、蒼真は余計に逃げられなくなる。
柊はそのまま親指で、さっき噛んだ場所をなぞった。
じわり、と甘い痺れが広がる。
「……反応しすぎです」
低く囁かれる。
「誰のせいだと……」
言い返そうとして、途中で息が止まる。
柊が再び顔を寄せてきたからだ。
今度は首筋へ額を押し当てるだけじゃない。
ゆっくり、熱を確かめるみたいに唇が触れる。
「……っ、柊、……お前、ずるいな」
柊の眉がわずかに動く。
掠れた声で蒼真が続ける。
「今までずっと平気な顔してたくせに」
その言葉に、柊が静かに目を伏せる。
「平気ではありませんでした」
柊は傍で、護衛として、部下として、ずっと耐えていたのだ。
蒼真が笑うたび、無茶をするたび、誰かへ近づくたび、その感情を押し殺し続けた。
柊の手が、蒼真の頬を包む。
今度は両手だった。
熱い。
こんなに体温の高い人間だったのかと思う。
そのまま、深く唇を重ねる。
熱が移る。
静かなのに、息が詰まるほど濃密だった。
閉じた部屋の中で、二人だけの熱が閉じ込められていく。
柊の額が蒼真の白い胸に触れる。
蒼真はゆっくり目を閉じた。
そして逃げる代わりに、自分から柊の身体を掴み寄せた。
その小さな応えに、柊の理性が静かに焼き切れる音がした。
おかしい、とまだどこかで蒼真は思う。
自分はこんなふうに誰かと触れ合う側の人間じゃなかったはずだ。
アレクは完全な気まぐれと打算で自分に構っているだけだし、自分もそれを利用している。
研究ばかりして、眠ることすら忘れて。
人との距離感なんて、ずっと壊れていた。
柊は蒼真に触れるたび、抑え込んでいた欲望が溢れていくようだった。
ベッドへとさらに押し付けられる。
逃げ場なんて、もうどこにもない。
けれど怖くはなかった。
柊の手は決して乱暴にならない。
欲しがっているくせに、最後まで蒼真を傷つけないように触れてくる。
その矛盾がたまらなく甘い。
「うぁ……っ」
心地よさに思わず声が出た。
二人の全身が熱を持つ。吐息も、全てが混ざり合う。
蒼真はそっと柊の髪へ指を通した。
黒髪が指へ絡む。
柊の身体がびくりと震えた。
その反応が面白くて、蒼真は自然と柊へ身体を寄せる。
すると柊が苦しそうに息を吐いた。
蒼真が小さく笑う。
柊は何も言わなかった。
次の瞬間、深く唇を塞がれる。
蒼真は息を奪われながら、柊の首へ腕を回した。




