第118話 TOKYO DEEP-9/2055/時針が刻む、いつものリズム
退院が決まったのは、それから二週間後だった。
医療班による最終検査。
神経接続部の安定。
再発兆候なし。
各種数値正常。
最後に主任医師が端末へ電子署名を入力し、ようやく長かった入院生活に終わりが告げられた。
「正式に許可が出ました。お二人とも退院です」
その言葉を聞いた瞬間、蓮は思わず拳を握る。
「やった……!」
心から出た声だった。
病室の窓から差し込む朝日さえ少し眩しく見える。
隣では蒼真が小さく息を吐いていた。
喜んでいないわけではない。
ただ彼の場合、安堵が先に来る。
ようやく仕事に戻れる、積み上がった案件も処理できる。通常運転だ。
そんな思考が顔に書いてある。
「退院おめでとうございます」
柊が静かに告げる。
「ありがとう」
「うん」
二人が返事をする。
それだけのやり取りだった。
それなのに柊の表情は僅かに柔らかかった。
蓮は見逃さなかった。
この男も案外寂しかったのだろう。
護衛対象が入院している期間は、常に緊張状態だったはずだ。
皆が元の日常へ戻れる。
それが少し嬉しかった。
◇
退院から三日後。
I.W.S.C.中央第零情報統括局。
統括主任執務室へ入った蒼真を待っていたのは、大量の書類ではなく同僚たちからの拍手だった。
「お帰りなさい!」
「生還祝いです!」
「死んでないからな」
即座に返したものの笑いが起きる。
机にはケーキ、菓子、花束。
さらには何故か退院記念と書かれた横断幕まで用意されていた。
蒼真は額を押さえる。
「これ企画したの誰だ」
「私よ」
イヴェットだった。艶やかな金髪をきっちりまとめ、深い紺のタイトなスーツを隙なく着こなした姿は、ただそこに立っているだけで場の空気を華やかに塗り替えるほどだった。胸元で控えめに光る宝石のブローチと、指先まで手入れの行き届いた装いが、彼女の洗練された存在感をいっそう際立たせている。
「予想通りというか……仕事は?」
「してるってば」
「ぜーったい、俺が居なかったのをいいことに溜め込んでるだろ」
断言だった。
しかし周囲の職員達は嬉しそうだった。
彼らにとって蒼真は上司であり精神的支柱でもある。
だからこそ無事に戻ってきた事実が何より嬉しい。
蒼真もそれは分かっていた。
結局、小さく笑う。
「……ありがとう」
その一言だけで職員達の顔が明るくなる。
だからこの人はずるい。
誰もがそう思った。
その輪の端に、ひとりだけ異質な男がいた。
黒に近い銀髪を肩口で流し、灰色の瞳を細めた長身の男。常にロングコートと革手袋を身につけ、静かに立っている姿はまるで葬儀屋のようだった。戦術AI主任技術監査官、ルシアン・クロウ。
「……遅かったな、蒼真」
口調はぶっきらぼうだったが、声音は落ち着いていて、どこか気遣いが滲んでいた。
蒼真は嬉しそうに目を細める。
「ルシアンまでいるのか」
「ああ。君が戻ったのに、顔を見せないわけにはいかないだろう」
そう言って、机の端に小さな黒い箱を置いた。
中には蒼真の好みを知っている者だけが選べるような、黒猫を模したチョコレートの詰め合わせと銀のペンが入っていた。
実用的で、妙に気が利いている。
蒼真は少しだけ目を見開く。
「……これ、ルシアンが選んだのか」
「そうだ。君の好みくらいは覚えている」
その言い方は淡々としていたが、視線だけはやけに柔らかい。
周囲の職員達が、ほんの少しだけ目を逸らす。
ルシアンは普段、他人には冷たい。
監査官としては容赦がないし、口も悪い。
だが蒼真にだけは、時々こうして異様に優しい。
「今日は座っていてくれ。まだ病み上がりだろう。主役が倒れては、せっかくの祝いが台無しだ」
「お前、俺のことをどう思ってるんだ」
「少し手のかかる上司だ」
返答はすぐだった。
それでも蒼真は、ほんの少しだけ口元を緩める。
ルシアンはそれを見て、満足そうに鼻を鳴らした。
◇
一方、蓮の生活は入院していた頃とは大きく変わっていた。
「遅い」
鋭い声が飛ぶ。
訓練用ナイフが弾かれる。
床を転がる。
「くそっ!」
「ちゃんと考えて動け」
「だってお前速いんだよ!」
「言い訳をするな」
柊は容赦しなかった。
倒れたり入院したりしている間にいつのまにか年が変わり、学校は冬休みになっていた。
朝から夕方まで、許可された時間の大半が戦闘訓練へ消えていく。
蓮は汗だくになりながら立ち上がった。
強くなりたかった。
守られるだけでは嫌だった。
蒼真の隣へ立ちたい。
その想いだけで続けている。
柊は何も言わない。
ただ黙って鍛える。
甘やかさず妥協もしない訓練に、蓮は必死で食らいついた。
そんな様子を訓練場上部の監視カメラが静かに見下ろしている。
もちろんE.D.E.Nだった。
記録・保存・分析を、今日も休みなく続けている。
◇
しかし蒼真には別の問題があった。
「だから俺への観測をやめろと言っている」
『却下します』
「なんでこんなコマンドエラーが起きるんだ……走査の結果侵食コードの影響なんかは一切無いし……」
『保護対象です』
「もう健康だ。保護対象じゃない。コード・レッドを遵守しろ」
『保護対象です』
「入院してる間だけの例外措置だと言ってただろ」
『認識エラーを確認しました』
「なに?」
『蒼真です』
「何でだよ……」
会話にならない。
執務室で蒼真は頭を抱えた。
今日はずっと同じ問答を繰り返している。
監視停止命令は却下され続け、無限ループだった。
「もうこうなったら、徹底的にファインチューニング、リファクタリング、データクレンジング……、いや、システム全体のリプレイスだ。……また、三日は寝られないかな」
ところが、その最中だった。
中央モニターの一角へ異常が表示される。
蒼真の表情が変わった。
「……待て」
数秒前までの疲労感が消える。
画面を拡大する。
データノイズ、通信欠損、観測空白領域────偶然では説明できない。
おそらく蒼真だけが遭遇したあの存在が意図的に隠している。
「E.D.E.N」
『はい』
「以前から報告されていた観測不能領域を全部洗い出せ」
『実行』
画面が埋まる。
だが、それは隠蔽でも消失でもなく、最初から存在しなかったかのように処理されていた。
蒼真は無意識に眉を寄せた。
嫌な感覚だった。
演算能力では説明できない種類の痕跡。
「監視網を拡張しろ」
『対象を指定してください』
「全領域だ」
『理由を要求します』
蒼真は少し考えてから、低く告げた。
「誰かが、お前の目を欺いている」
室内が静まり返る。
E.D.E.Nは沈黙した。
その演算速度なら本来あり得ないほど長い空白だった。
やがて応答が返る。
『脅威判定を更新』
『最優先調査対象へ登録』
『監視網拡張を開始します』
世界最大規模の観測システムが動き始める。
誰にも見えず、気付かれぬまま。
そして遥か遠く、存在しないはずの座標で、暗い海の底のような演算空間の中、何者かが微かに笑った。
E.D.E.Nの監視網。
衛星群、量子通信網、そして世界中へ張り巡らされた無数の目。
その全てをすり抜け、静かに確実に、それは存在していた。
まだ誰も知らない。
恐るべき災厄が、既に目を覚ましていることを。




